第71話 呼び戻す書簡
クラウゼン領。丘の上の屋敷。朝の風が、麦の穂を撫でていく。窓を開けると、遠くで水車の音がした。私は机の上の書簡を、もう一度開いた。協議院議事録。そして、新しい制度案。
昨夜のうちに三度読んだ。今朝、四度目を読んでいる。
「まだ読んでおられるのですか」
マリアが茶を置く。
「ええ」
私は答えた。
「よく書けています」
「では、何が問題なのでしょう」
「よく書けすぎています」
マリアは何も言わず、私の隣に立った。制度案の表題はこうだ。
――公開監査情報の一元管理および地方配信に関する提案。
内容は単純だった。協議院が常設化した公開監査のデータを、中央で一つにまとめる。そして、地方へ定期的に配信する。それだけだ。
「悪い話には聞こえません」
マリアが言う。
「ええ」
私も同じ意見だった。だから、引っかかっている。
制度案には、普通、穴がある。利害が入るからだ。誰かを得させ、誰かを損させる。その歪みは、必ず文面のどこかに残る。
だがこの案には、それがない。
地方は情報を早く受け取れる。中央は管理の手間が減る。軍は補給計画を立てやすくなる。
全員が得をする。
「綺麗すぎます」
私は言った。
「綺麗なのは、悪いことですか」
「制度に限って言えば」
私は書簡を閉じた。
「悪いことです」
三日後。王都・南門。門番が名簿を広げる。
「お名前を」
「エリス・フォン・クラウゼン」
門番の手が、一瞬だけ止まった。数年前。この門は、私に対して閉じられていた。財産没収。王都立ち入り禁止。そう宣告された女が、いま名簿に名を書いている。
「どうぞ」
門番は、それだけ言った。余計なことは、何も言わなかった。それでいい。制度が正しく動いている場所では、人は余計なことを言わない。門をくぐりながら、私は一つのことを考えていた。
私が戻ってきたのは、赦されたからではない。呼ばれたからでもない。制度が、私を通す形になっていたからだ。門は、人を選ばない。名簿があるだけだ。それが、あの日の答えだった。
中央広場。市が立っていた。
果物。布地。鉄器。
商人の声が高い。数年前の王都には、この音がなかった。私は人混みを抜けて歩いた。酒場の前を通ったとき、中から声が聞こえた。
「昔、悪役令嬢って呼ばれた女がいたらしい」
「知ってる。国を作り直したって話だろ」
「作り直したのは協議院だろう」
「同じことだ」
私は足を止めなかった。名前は、残っている。だがもう、物語の中にしかいない。それも、悪いことではない。白曜宮。中央監査室。ガイウス・ヴェルナーは、以前より少しだけ痩せていた。
「久しいな」
「ご健勝で何よりです」
「健勝ではない」
彼は書類を積み直す。
「制度が増えた分だけ、老いた」
私は少し笑った。
「制度案を拝見しました」
「どう見た」
「反対する理由が、一つも見当たりません」
ガイウスが、視線を上げる。
「賛成ということか」
「いいえ」
私は答えた。
「反対する理由が見当たらない、と申し上げました」
沈黙。ガイウスは、しばらく私を見ていた。やがて、短く息を吐く。
「相変わらずだな」
私は議事録を手に取った。過去半年分。紙をめくる。発言者の欄だけを追う。
「一つ、数えました」
「何をだ」
「地方代表の発言回数です」
ガイウスが眉を寄せる。
「半年前の議会で、四十一回」
「先月の議会で、二十六回」
沈黙。
「揉め事が減ったからだろう」
ガイウスは言った。
「議論が減るのは、悪いことではない」
「ええ」
私は議事録を閉じた。
「ですが、意見が減ったのだとしたら」
ガイウスは何も答えなかった。
「一つ、伺います」
私は言った。
「この案を出したのは、どなたですか」
ガイウスは議事録を一枚めくった。そして、その名を読み上げた。
「協議院・中央代表」
「元 王都財務監査官」
「レオンハルト・ヴェルナー」
次に開かれるのは、その男が書いた条文です。




