第70話 閑話 断罪した王太子と、嘘をつかない数字
完結後の番外編(閑話)です。
本編第1話「婚約破棄と断罪」を、断罪した側――王太子アルベルトの視点から描きます。
時系列は本編序盤、エリスが辺境へ送られてしばらく後。
本編を読み終えた方向けの、静かな一編です。
王城・東翼の執務室。夜だった。窓の外に、王都の灯りが並んでいる。
塔。城壁。中央広場。
すべてが、いつもどおりに見えた。アルベルトは、机の上の書類を見ていた。辺境領クラウゼン。税収報告。彼は最初、それを見もしなかった。見る価値がないと思っていた。
痩せた土地。減り続ける人口。荒れた農地。
あの女を送り込むには、ちょうどいい場所だった。
――悪役令嬢として断罪する。
自分の声を、まだ覚えている。
謁見の間。高く掲げた宣告。満足そうに頷いた貴族たち。
正しいことをした、と思っていた。
冷酷で、計算高く、他者を顧みない女。数字ばかりを見て、貴族の伝統を軽んじる女。
王家の威信を、あの女は傷つけた。だから、追放した。それで、終わったはずだった。アルベルトは、書類を閉じようとした。その手が、止まる。数字が、おかしい。
「……これは」
彼は、もう一度目を落とす。辺境領クラウゼンの税収。前年比。増えている。彼は眉をひそめた。
「集計の誤りだろう」
そう呟いて、側近を呼んだ。
「クラウゼンの報告だ」
「はい」
「数字が合っていない」
側近は、書類を確認する。
「……いえ」
言い淀む。
「これは、正しい数字です」
沈黙。
「増えている、ということか」
「はい」
「あの土地が」
「はい」
アルベルトは、椅子に背を預けた。偶然だ。そう思おうとした。一度きりの、まぐれだ。だが、報告は続いた。
翌月も。その翌月も。
税収は増えた。人口も、流入に転じた。
近隣の領地から、人が移り始めている。
農業改革。市場整備。帳簿の公開。
報告書には、聞き覚えのある言葉が並んでいた。かつて王都で、あの女が提出しようとしていた案。
無駄な支出の削減。補助金の偏りの是正。不透明な資金移動の報告。
自分が、退けたものだ。冷酷な、計算高い提案として。アルベルトは、目を閉じた。
「数字は、嘘をつかない」
そう言ったのは、誰だったか。思い出せない。いや。思い出したくないのだ。彼は、別の書類を取り出した。王都の予算報告。こちらは、逆だった。赤字が、じわりと広がっている。
補助金は、相変わらず特定の貴族へ偏り。資金の流れは、相変わらず不透明。
あの女が、是正しようとしていたものだ。彼女がいなくなって、誰も触れなくなった。触れれば、嫌われるからだ。
沈黙。
アルベルトは、窓の外を見た。王都の灯り。その、はるか向こう。
見えない辺境で、一人の女が帳簿を睨んでいる。嫌われることを、恐れずに。彼は、ゆっくりと息を吐いた。
「厄介だな」
口に出したのは、それだけだった。認めるわけには、いかなかった。自分が断罪したのは、無能な女ではなかった。この国で、たった一人。まともに、国を回そうとしていた者だった。
それを、追放した。拍手のなかで。だが――アルベルトは、その考えを、机の奥へ押し込んだ。王太子には、立場がある。一度下した断罪を、覆すことはできない。
覆せば、あの謁見の間にいた全員が、間違っていたことになる。だから、彼は何も言わない。数字を、見なかったことにする。そうやって、王都は回ってきた。これからも、そうするしかない。
彼は、書類を閉じた。灯を消そうとして、ふと、手を止める。断罪の、あの日。自分が問いかけたとき。あの女は、泣きも、すがりもしなかった。ただ、静かにこう言った。
――理解はしています。ただし、それは私の罪ではありませんが。
あのとき、意味が分からなかった。今なら、分かる気がした。論点が、ずれていたのは。追放された女ではなく。
――断罪した、自分の方だったのか。
彼は、その問いに、答えを出さなかった。出せば、多くのものが、崩れてしまう。窓の外で、王都の鐘が鳴った。アルベルトは、灯を消す。暗くなった部屋で、彼は最後に一つだけ、考えた。
あの女は、いつか。この王都に、戻ってくるのだろうか。そのとき、自分は。どんな顔をすればいい。答えは、出なかった。
夜は、まだ長い。
本編を「断罪した側」から見直すと、彼には彼なりの立場と恐れがありました。
派手な制裁ではなく、数字の前で静かに敗れていく――そんな一編にしています。
――この夜の問いには、答えが出ます。




