第66話 設計者
白曜宮・東塔の書庫は、静かだった。議場とは違い、ここには政治の喧騒がない。
古い法典、戦史、経済記録。王国の歴史が、棚に並んでいる。どれも背表紙が擦り切れているのに、中の紙は驚くほど綺麗だった。読まれずに運ばれ続けた本の顔をしている。
私は一冊の帳簿を閉じた。ずいぶん古い年の地方財政の記録で、数字の付け方が今と違う。当時の中央が、地方の何を見ようとしていなかったのかが、様式そのものから読み取れる。
「まだ働いているのか。議会は三刻前に終わったぞ」
後ろから声がした。振り向くと、レオポルドが立っている。王太子として復帰してから、彼は忙しい。それでも時々、ここへ来る。
「制度は、作った後が大変です。書いた条文が、書いた通りに読まれることの方が珍しいので」
私は答えた。
「動き始めると、必ず歪みが出ますから」
彼は棚を見渡した。壁一面の背表紙が、彼の視線をゆっくり受け止めていく。
「国家も同じだな」
沈黙。
「私は政治をしている。だが、君は違う」
私は首を傾げた。
「どう違います。私も条文を数えているだけですが」
彼は少し考えた。窓の外では、市場の灯りがまだ落ちていない。
「政治家は、今日を動かす。だが君は」
一冊の本を取り出す。
「明日を設計している」
沈黙。
「制度、金融、地方構造。すべて繋がっている」
彼は本を閉じた。
「普通の政治家は、そんなことを考えない」
私は小さく笑った。
「考える時間がないのです。危機は、いつも突然来ますから。突然来たものに、その場で答えを出そうとすれば、いちばん声の大きい案が通ります」
沈黙のあと、彼は言った。
「君はこの国に残るのか」
「半分は」
私は答えた。
「クラウゼン領があります。地方が崩れれば、国家も崩れますから。ですが、協議院にも関わります」
彼は少し笑った。
「忙しい女だ」
「設計者は、そういうものです」
書庫の窓から王都が見える。市場の灯り、議会の灯り。そのすべてが繋がっている。
レオポルドが静かに言った。
「歴史書は、どう書くだろうな」
私は少し考えた。
「王太子が国家を改革した。そう書かれます」
彼は首を振った。
「違う。国家が変わる準備をしていた。そして」
彼は続けた。
「一人の女が、設計図を描いた」
私は本棚を見た。歴史書はいつも英雄を書く。誰が勝ち、誰が死んだかは残る。だが、誰がどの条文を通したかは残らない。制度を作った者は、書かれない。
「それでいいです」
私は言った。
「制度は、目立たない方が長く続きます。誰が作ったか分からなくなった頃が、いちばん強い」
レオポルドは小さく笑った。
「設計者らしい答えだ」
遠くで鐘が鳴る。夜の王都で、国家は静かに動いている。危機は終わった。それでも、国家という仕組みは終わらない。
そして。
設計図は残る。
残したものが正しかったかどうかを、まだ誰も確かめていない。
確かめる役は、次の議題が引き受けます。
――静かな書庫の場面が好きだった方、評価で教えてください。




