第60話 均衡の男
王都・北議会館。夜の廊下は静かだった。窓から見える王都の灯りは、どこか落ち着きを取り戻している。それでも、国家の均衡はまだ脆い。
アルベルトは窓辺に立っていた。手には一枚の紙。黒曜会の内部記録だ。資金の流れ、債権、政治献金。その全てが、線で繋がっている。
扉が静かに開いた。この時刻に、この男が訪ねてくる理由は一つしかない。
「殿」
秘書官が入ってくる。
「黒曜会の代表が」
アルベルトは振り向かなかった。
「カルドか」
「はい」
「通せ」
数秒後、カルド・ヴァレンシュタインが部屋に入ってきた。二人はしばらく無言だった。
「久しいな」
カルドが言う。
「議場では、よく顔を合わせる」
アルベルトは淡々と答えた。
「だが、こうして会うのは珍しい」
カルドは笑った。
「君は慎重だ。均衡を愛している」
アルベルトは紙を机に置いた。
「君の組織は、その均衡を壊している」
カルドは首を振った。
「違う。均衡を作っている」
沈黙。
「国家は巨大すぎる」カルドは言った。「巨大なものは、必ず硬直する。だから我々が市場で動かす」
「恐怖を使って、か」
アルベルトの目が細くなる。
「国家を人質にしている」
カルドは微笑んだ。
「国家も市場を使っている。同じことだ」
沈黙。
「君は理解しているはずだ」
カルドの声は穏やかだった。
「エリスの構造は理想論だ。国家は理想では動かない。資金で動く」
アルベルトは静かに言った。
「そして君は、資金を支配したい」
カルドは否定しなかった。否定する必要を感じていない。それが、この男のいちばん危険なところだった。
「市場は国家より合理的だ。人は裏切る。だが利益は裏切らない」
長い沈黙のあと、アルベルトは言った。
「私は均衡を愛している」
「知っている」カルドが頷く。「だから君は、我々の側だ」
アルベルトはゆっくりと首を振った。
「違う」
カルドの目が、わずかに動いた。
「均衡は、恐怖では保てない」
静かな声だった。
「恐怖の均衡は、必ず崩れる」
カルドは黙った。アルベルトは続ける。
「エリスの構造は危険だ。だが、国家が恐怖に従う前例を作るよりは、ましだ」
返事までに、少しの間があった。それからカルドはゆっくりと笑った。
「つまり、彼女の側に立つと」
「国家の側に立つ」
アルベルトは答えた。
「そうか」
カルドは少しだけ肩をすくめた。
「残念だ。君は優秀だった」
アルベルトは静かに言った。
「公開監査が始まる」
「だろうな」
「我々の名前も出る」
「だろうな」
沈黙が落ちた。
「だが」
カルドは窓の外を見た。
「市場は消えない。黒曜会が消えても、別の形で現れる」
「それでも」アルベルトは言った。「国家は守る」
カルドは小さく笑った。
「均衡の男らしい答えだ」
彼は扉へ向かった。長く同じ議場にいた二人が、今夜で別々の側に分かれる。それだけのことが、この国では滅多に起きない。
「次に会うときは、敵だな」
アルベルトは答えた。
「最初から、そうだ」
カルドは去っていった。部屋に静寂が戻る。
アルベルトは窓の外を見た。王都の灯り、その中心に白曜宮。そして、暫定協議院。
彼は静かに呟いた。
「国家は、理想では動かない。だが、恐怖でも動かしてはならない」
翌朝、暫定協議院。アルベルトは議席に立った。
「公開監査に賛成する」
議場がざわめく。
均衡の男が、国家側に立った瞬間だった。
国の内側が固まると、次に問われるのは外との線です。




