第55話 境界線
夜明け前、王都に鐘が鳴り響いた。
「国境にて衝突拡大!」
伝令の声が白曜宮を駆け抜ける。ノルディア軍が小規模に侵入し、近衛部隊が迎撃した。死傷者が出ている。
空気が、変わった。死傷者という言葉が出た瞬間、それまでの議論の全部が古くなる。摂政会議が緊急招集された。
「軍は命令違反だ!」
ヴァルテン伯が怒鳴った。レイスが冷静に答える。
「侵入を確認しました。迎撃は正当防衛です」
「外交交渉中だぞ!」
「交渉中に、領土を踏まれました」
沈黙。軍部席がざわつく。
「戒厳令を出すべきだ」
誰かがそう言った。それは、国家の分水嶺だった。戒厳令は、軍主導を意味する。
ガイウスが低く言う。
「戒厳は、内政の不安を確定させます」
ヴァルテン伯は冷たく返した。
「では、王太子に復帰してもらうか?」
沈黙。罠だった。王太子を戻せば、疑惑が未解決のまま国家は分裂する。戻さなければ、軍と摂政が対立する。どちらも、黒曜会の望む構図だ。選ばせる側が、両方の出口に手を置いている。
その時、別の報告が届いた。
「ノルディアより、正式通告です」
内容は明確だった。国境安定化のため共同統治監査団を派遣する。王太子の退位を条件に、貿易を再開する。
王太子退位。国家主権への、直接の介入だった。
議場が凍りつく。
「これは、宣戦布告に等しい」
レイスが低く言う。
ヴァルテン伯は言葉を濁した。
「戦争は避けるべきだ」
「退位すれば、避けられるのですか」
誰も答えなかった。
私は静かに理解した。ここが境界線だ。王太子が完全に退位すれば、黒曜会は実質的に勝利する。退位を拒めば、戦争と内乱の可能性が残る。
夜、白曜宮の奥。レオポルドはすでに通告を読んでいた。
「予想通りだ」
低い声だった。私は向かいに立つ。
「退位なさるおつもりですか」
長い沈黙があった。
「退けば、戦争は回避できる可能性がある。黒曜会が市場を安定させ、軍も抑えられる」
彼は淡々と分析した。それは、合理的な判断だ。だが。
「国家は、残りますか」
私は問うた。彼の目がわずかに動く。
「残るのは、形だけです」
私は一歩踏み出した。この人はもう、退位の理由を数え終えている。数え終えた人間を止めるには、別の数え方を渡すしかない。
「今退位すれば、国家は恐怖に従った前例を持つことになります。次も、同じ圧力が来ます」
沈黙。
「殿下は、責任を背負いすぎです」
「それが役目だ」
「違います」
思わず強く言った。
「役目は、構造を守ることです」
静寂。
「人を差し出すことでは、ありません」
レオポルドは目を閉じた。苦悩は隠せていない。
「ならば、どうする」
問いだった。これは政治ではない。選択だ。
私は答えた。
「退位しない。ですが、復帰もしない」
彼の目が開く。
「摂政会議を制度化します」
「何だと」
「協議院の暫定発足です。地方と中央の共同統治体制を、先に実行します」
沈黙が落ちた。大胆すぎる案だという自覚はある。
「退位要求は拒否し、共同監査団は受け入れます。透明性で、外交圧力を逆に利用する」
レオポルドは静かに言った。
「賭けだ」
「はい」
「失敗すれば」
「国家は割れます」
沈黙。それでも、彼の目に微かな光が戻っていた。
「危険な女だ」
「光栄です」
遠くで、軍の号令が響いた。国境は緊張状態にある。摂政は揺れ、軍は動き、黒曜会は待っている。
境界線に立っている。
国家は、今まさに選択を迫られていた。
選ぶと決めた国が、次に決めるのは席の並べ方です。




