第5話 公開される帳簿
翌日、領主館の大広間には、珍しく人が集まっていた。
役人全員。各部署の責任者。そして、数名の兵士。
空気は重く、落ち着かない。誰もが理由を分かっているが、口にはしない。昨日のうちに帳簿を運ばされた者ほど、壁際に寄っている。
――帳簿だ。
私は中央の席に立ち、集まった顔ぶれを見渡した。年齢も、立場も、表情も様々だが、共通点が一つある。
誰も、自分の仕事を説明する準備ができていない。何をしているかではなく、何を聞かれるかを考えている顔だった。
「お集まりいただき、ありがとうございます」
静かな声だったが、大広間の私語はすぐに止んだ。
「本日は、叱責の場ではありません」
「この領地の現状を、全員で共有するための場です」
数名が、ほっとしたように息を吐いた。だが、それは早計だ。
「まず、こちらをご覧ください」
私はマリアに合図を送る。彼女は一歩前に出て、用意していた紙を配った。そこには、簡潔に整理された数字が並んでいる。
「……これは?」
誰かが、小さく呟いた。
「クラウゼン領、過去三年間の主要支出です」
私は続ける。
「道路整備費、倉庫管理費、警備費」
「どれも、年ごとの変動がほとんどありません」
「それが何か?」
バルツが、腕を組んで言った。声は落ち着いているが、目が笑っていない。
「地方では、予算は固定されがちです」
「急な変動は、むしろ危険――」
「では、質問します」
私は、彼の言葉を遮った。
「三年前と現在で、道路の状態は同じですか?」
誰も答えなかった。
「倉庫の稼働率は?」
「警備の範囲は?」
誰も答えない。
「数字が同じなのに、現場は悪化している」
「これは、どういうことだと思いますか?」
空気が、じわじわと冷えていく。
「……予算が足りなかったのでは」
別の役人が、苦し紛れに言った。
「違います」
私は即答した。
「予算は、足りていました」
「使い方が、間違っていただけです」
私は、別の紙を掲げる。
「こちらは、実際の工事記録です」
「工事日数、作業人数、使用資材」
「帳簿の金額と、合いません」
ざわめき。
「小さな差です」
「一件ごとなら、見逃される程度」
「ですが――」
私は、一度言葉を切った。
「三年分を合計すると、どうなると思います?」
マリアが、数字を読み上げる。
「……銀貨、二千三百枚相当です」
大広間から、音が消えた。銀貨二千三百枚という数字が、誰の頭の中でも同じ重さに変換されるまでに、少し時間がかかった。
二千三百枚。この領地では、決して小さくない額だ。農家が何十軒も救えるし、崩れたままの道も直せる。三年のあいだ、それが毎年少しずつ、誰にも気づかれない速さで消えていた。
「説明をお願いします」
私は、バルツを見た。
「これは、あなたの管轄ですね?」
バルツは、一瞬だけ視線を逸らした。
「……管理上の誤差です」
「悪意があったとは――」
「では、次です」
私は容赦なく続ける。
「倉庫管理費」
「備品購入の名目で、存在しない物品が計上されています」
「そんな馬鹿な!」
「確認しました」
淡々と、事実だけを重ねる。
「倉庫には、該当する在庫がありません」
「発注記録は、あなたの署名付きです」
沈黙が、痛いほど重くなる。
「……領主様」
バルツが、ようやく口を開いた。声は、少し震えている。
「このような場で、個人を責め立てるのは――」
「責めていません」
私は、首を横に振った。
「確認しているだけです」
「数字と、記録と、現物を」
それ以上でも、それ以下でもない。
「では、結論を出します」
私は、大広間に響く声で告げた。
「バルツ氏」
「あなたを、領政から外します」
一斉に、息を呑む音。
「本日付で、職務停止」
「調査が終わるまで、自宅待機です」
「なっ……!」
「異議は受け付けません」
私は続けた。
「この処分は、感情によるものではありません」
「数字によるものです」
役人たちの間に、ざわめきが広がった。恐怖と、わずかな安堵が混ざっている。処分そのものより、処分の理由が数字で示されたことに驚いているようだった。
――自分ではなかった。
「最後に、皆さんへ」
私は視線を巡らせる。
「隠し事をする必要はありません」
「ですが、数字は必ず見ます」
「誠実に働く方は、評価します」
「そうでない方は――」
言葉を切り、はっきりと言った。
「椅子を失います」
その場に、反論する者はいなかった。反論の材料が、この部屋には一枚も残っていない。
会合が終わり、人々が散っていく。マリアが、私の隣に立った。
「……すごいですね」
「何が?」
「怒鳴りもしないのに、誰も逆らえなかった」
私は、少し考えてから答えた。
「怒鳴る必要がなかっただけです」
「数字が、全部言ってくれましたから」
大広間に、静けさが戻った。長机の上には、配った紙がそのまま残っている。誰も持ち帰らず、誰も裏返さなかった。
王都でも、私は同じように人前へ立たされた。あの謁見の間には、数字が一枚も出てこなかった。罪状を読み上げる声だけがあって、金額も、日付も、記録もなかった。
――だから私は、数字を出す側に立つ。
――これで、一つ。
この領地は、ようやく動き出した。
席が一つ空くと、その分だけ敵が増えます。




