第37話 老獪なる試算
王都財務院。高い天井と、壁一面の帳簿棚。ガイウス・ヴェルナーは、一人で試算表を眺めていた。
白髪の交じった髪と、深く刻まれた皺。それでいて、視線だけは若い者より鋭い。
「……よく出来ている」
彼の前にあるのは、クラウゼン領の公開財政報告書だった。収支構造、依存率の推移、連合協定後の安定度。読ませたい順に、きれいに並んでいる。都合の悪い数字を後ろに隠していないのが、かえって不気味だった。
「大胆だが、無謀ではない」
若手官僚のセリーヌ・アルヴェールが、静かに立っていた。
「評価されますか」
「評価する」
即答だった。
「だが国家は、評価だけでは動かぬ」
ガイウスは別の資料を広げた。中央税収、軍費、治安維持費、港湾整備費。どれも地方から吸い上げた金で回っている。
「地方が自立するほど、中央は削られる」
「五%減です」セリーヌが補足する。
「今はな。問題は波及だ」
彼は指を紙の上に滑らせた。
「三領地が五に。五が八に」
「雪崩ですか」
「そうだ」
ガイウスの声は低かった。
「地方は常に不満を抱えている。成功例が一つ出れば、真似る。しかも真似るのは、思想ではなく手順だ。手順は書き写せる」
沈黙が落ちる。
「殿下は、彼女を試すと仰いました」
「当然だ」
ガイウスは書類を閉じた。
「国家に組み込める人材か、切り捨てるべき芽か。それを見極める必要がある」
彼は立ち上がった。
「エリス・フォン・クラウゼンは、理性的だ。だからこそ厄介でな。感情で暴れる者なら、潰せば済む。だが彼女は、秩序の外で秩序を作る」
セリーヌが静かに言った。
「地方分権型の国家モデル、ということでしょうか」
ガイウスはわずかに笑った。
「若いな」
「……違いますか」
「間違ってはいない」
ガイウスは机の縁を指で二度叩いた。理論として正しいものが、そのまま国家として成立した例を、彼はまだ一つも知らない。
彼は窓の外を見た。王都の塔群が、いつもの位置に立っている。
「だが国家は、理論ではなく歴史で動く。急激な再設計は、必ず反動を生む」
沈黙のあと、セリーヌが問うた。
「財政透明化法案は、彼女への枷ですか」
「違う」
ガイウスの目が鋭くなる。
「鏡だ」
「鏡?」
「国家の中で自らをどう位置づけるか。それを映す」
「応じれば?」
「共存の道がある」
「拒めば?」
「国家の敵だ」
冷たい言葉だった。だが、そこに私情はない。
ガイウスは最後にもう一度、クラウゼンの帳簿に目を落とした。
「……惜しいな」
「何がです」
「中央にいれば、優秀な官僚になれた。あるいは、十年で潰されたか。どちらにせよ、あの帳簿は残らなかった」
セリーヌが静かに言う。
「彼女は、中央に従うでしょうか」
ガイウスは少し考えた。
「従わぬだろうな」
そして、静かに続けた。
「だが、対話はする。従わぬ者と話せぬ者は違う。あれは後者ではない」
その時、扉が開いた。伝令が入り、短く告げる。法案は可決、監査団の派遣が決定した。国家が、正式に動き出す。
ガイウスはゆっくりと息を吐いた。
「さて」
老練な目が、わずかに光った。
「試験の時間だ」
試験の答案は、辺境まで取りに来るそうです。




