第36話 国家の重み
王都、白曜宮。円卓の中央に、分厚い財政試算書が置かれていた。
「……辺境連合の拡大は、無視できません」
大宰相ガイウス・ヴェルナーが静かに告げる。
「現在は三領地。模倣の兆候が、さらに二領地にあります。五領地が追随すれば、中央税収は五%減」
沈黙が落ちた。五%という数字は小さく見える。だが国家の規模で見れば、軍費の一年分に相当する。国境に置く兵の数が、そのまま一年分減るということでもある。
「地方の自助努力は、悪ではない」
低く、落ち着いた声だった。王太子レオポルド・アルトハイムが報告書を閉じる。
「だが、秩序は守らねばならない」
その瞳は冷静だ。それでいて、奥に熱がある。地方を嫌っている者の目ではない。地方を恐れている者の目でもない。
アルベルトが一歩進み出た。
「殿下、クラウゼンは象徴です。断罪で消えるはずの存在が、地方の旗印になっている」
「承知している」
レオポルドは窓の外を見た。並び立つ王都の塔群。中央集権の形が、そのまま石になったような光景だ。
「エリス・フォン・クラウゼン」
その名を、静かに口にする。
「彼女は優秀だ」
アルベルトがわずかに目を細めた。
「危険でもあります」
「そうだ」
即答だった。
「有能な者ほど、危うい。無能な反逆は潰せばよい。有能な忠誠は、行き先を間違えたときに国を割る」
ガイウスが口を開く。
「財政透明化法案を進めますか」
円卓の誰も、それが何を意味するかを口にしなかった。地方の帳簿を開かせるということは、中央の帳簿もいずれ開くということだ。
「進めよ」
迷いはなかった。
「地方財政の完全開示。中央監査の常駐」
「強硬策です」
アルベルトが問う。
「違う」
レオポルドは静かに首を振った。
「試すのだ。制度に従える者かどうかは、命じてみれば分かる」
沈黙。
「国家の一部として機能するつもりがあるなら、彼女は応じる」
「拒めば?」
「その時は、国家の敵と判断する」
冷たい言葉だった。だが、声は静かなままだ。
「私は地方を潰したいのではない。国家を守りたい」
レオポルドの視線が報告書に戻る。
「急激な変革は、崩壊を招く」
彼の胸には、幼い頃の記憶があった。地方の反乱、飢饉、王都の混乱。整った街並みが一晩で意味を失うのを、彼は子どもの目で見ている。制度が壊れるとき、最初に死ぬのは制度を作った者ではない。それを彼は、数字ではなく光景として覚えていた。
「私は、同じ過ちを繰り返さない」
低い声だった。
「殿下は、彼女を恐れているのですか」
アルベルトの問いに、一瞬だけ沈黙があった。
「恐れてはいない。だが、注視している」
彼は立ち上がった。
「エリス・フォン・クラウゼン」
静かな決意が、その声にあった。
「国家の中で戦う覚悟があるなら、私は受ける。だが」
その瞳が冷たく光る。
「国家を揺らすなら、容赦はしない」
鐘が鳴り、会議は終わった。法案は提出される。書記官が席を立ち、円卓に残された試算書だけが、さっきと同じ厚みでそこにあった。王都が、動き始めた。
経済戦は、まだ終わっていない。
その上に、国家と地方の思想が重なった。どちらが先に折れるのかは、王都にも、こちらにも見えていない。
思想の対峙を、数字だけで片づけようとする人がいます。
――中央側の言い分にも一理あると思った方、評価をひとつ。




