第35話 揺さぶり
南方グランディアに届いた書簡は、極めて丁寧だった。王都紋章入りの正式文書。中身は簡潔だ。
中央との個別協定を提案する。塩業に関する優遇措置、税率の一部軽減、資金支援。
ただし、辺境相互経済協定からの離脱を条件とする。
南方領主は、しばらく無言でそれを見つめていた。
「……来たか」
側近が息を呑む。
「断りますか?」
即答はできなかった。頭の中を数字がよぎる。塩業は南方の命綱であり、王都との関係は昔から不安定だった。この優遇は、確かに大きい。断るには理想が要り、受けるには理由が要らない。そういう条件の作り方をしている。
「……エリスは、どう動くと思う」
側近は答えられなかった。
その頃、クラウゼンではまだ何も知られていなかった。三日後、南方領主から訪問要請が届く。
会議室に集まった顔ぶれは前回と同じだったが、空気だけが違っていた。
「王都から、提案があった」
沈黙。ヴィクトールが低く言う。
「内容は?」
南方領主は書簡を机に置いた。マリアが目を通し、息を呑む。
「……分断」
私は黙って最後まで読んだ。条件は悪くない。いや、良い。塩業独占の緩和、税率軽減、補助金。連合に残るより、短期的には確実に得だ。
「返答は?」
「保留している」
南方領主は私を見た。
「エリス殿。あなたは、どう思う」
私はすぐに答えられなかった。合理的に言えば、答えは一つしかない。
「受けるべきです」
マリアが顔を上げる。ヴィクトールが睨む。私は構わず続けた。
「短期の利益は明確です。連合を抜けても、南方は生き残れます」
部屋が凍りついた。私が味方を切ったと、この場の誰もが一瞬そう思ったはずだ。
「だが」
そこで、初めて言葉を選ぶ。
「王都は、あなたを必要としているのではありません。私を崩すために、あなたを使うのです」
南方領主の目が揺れた。
「いずれ、次は別の条件を出してきます。そのとき、依存は元に戻る」
沈黙が続いた。
「それでも」
私は静かに言った。
「決めるのは、あなたです」
ヴィクトールが机を叩いた。
「エリス!」
「感情で縛る気はありません」
私は彼を見た。
「連合は、強制ではない」
長い沈黙のあと、南方領主が深く息を吐いた。
「……冷たいな」
私は小さく笑った。
「ええ」
「だが、正直だ」
彼はもう一度、書簡に目を落とした。
「王都の提案は、魅力的だ」
空気が重くなる。誰も口を挟まなかった。
「だが」
彼は書簡を折った。
「一度崩れた信頼は、戻らない」
視線が、私に向く。
「連合は続ける」
マリアがほっと息を吐いた。ヴィクトールが低く笑う。
「王都も甘くないな」
南方領主は静かに言った。
「次は、もっと強い条件だろう」
私は頷いた。
「ええ」
分断は失敗した。だが、これは第一波にすぎない。王都は本気だ。そして私の合理性は、これから何度も試される。
夜、執務室で一人考えた。私は南方に「受けるべき」と言った。あれは本音だった。だが、本当にそれでよかったのか。彼が折れていたら、私はその判断を正しいと言い続けられただろうか。合理は、選ばれなかったときにだけ正体を見せる。
窓の外、街の灯りが揺れている。連合は守られた。それでも、疑念は消えていない。政治は、感情を削っていく。
次の一手は、さらに深いところを狙う。
深いところを狙われた側は、国家という言葉で殴り返してきます。




