第26話 信用崩壊
大口商会〈ローデン商会〉が正式に撤退を発表したのは、翌朝だった。
「……やはり、来ました」
マリアの声は静かだった。理由は明快で、通知にはこう並んでいる。取引上の危険の増大、金融環境の不透明化、そして王都本店の判断。
「規模は?」
「領内取引の一割を占めています」
一割。数字としては大きいが、取り返せない額ではない。代わりの取引先も、探せば出てくる。だが、本当に恐ろしいのはそこではなかった。
「象徴ですね」
「象徴……?」
「“大手が引いた”という事実そのものが、信用を削ります」
午後には、市場に不安が広がっていた。ローデンが抜けるらしい、王都は本気だ――そんな言葉が天幕の下を回り、商人たちが仕入れを控え始める。控えれば品が薄くなり、薄くなればまた値が揺れる。
「……連鎖が始まっています」
マリアが一覧を差し出した。小規模商人が三件、王都銀行への移転を相談中。工房が二件、発注を延期。
ヴィクトールが机を強く叩いた。
「このままじゃ、止まらん」
「ええ。信用が縮むと、誰もが自己防衛を始めます。そして防衛は、全体を崩す」
「どうする」
彼の目は真剣だった。私はゆっくりと立ち上がる。
「信用を、作ります」
「……今からか?」
「今だからこそです」
私は用意していた書類を取り出した。領内信用証書制度、正式案。
マリアが目を見開く。
「本気で導入するのですか?」
「はい。王都銀行が融資を絞るなら、領内で小口の融資を回します」
「原資は?」
「税収の黒字分と、商人からの出資です」
「商人が出すと?」ヴィクトールが腕を組む。
「利益を提示します」
私は計算式を示した。利率は王都より低く、返済条件は柔軟に。ただし用途は限定する。
「用途?」
「生産活動のみです」
消費ではなく、再生産に使わせる。金を配るのではなく、動く金を作る。
短い沈黙のあと、ヴィクトールが言った。
「……危険は高いぞ。焦げ付けば、領が抱えることになる」
「承知しています」
私はまっすぐ彼を見た。
「ですが、何もしなければ三か月で赤字転落です」
三か月という数字を、私はもう三度読み直していた。読み直すたびに、選べる手がひとつずつ減っていく。
「どれくらい回せる?」
「最初は小規模です。象徴が目的ですから」
ローデン商会の撤退に対する、こちらの象徴。数字ではなく、姿勢を見せる必要があった。
その夜、主要な商人を集めた。集まった顔には、隠しようもなく不安が出ている。
「王都銀行の融資停止は、事実です」
隠さずに告げると、ざわめきが広がった。
「ですが、代替の手段を用意しました」
信用証書制度を説明する。用途限定、低利、そして会計は全面公開。
説明が終わっても、誰も口を開かなかった。やがて一人の若い商人が、遠慮がちに手を挙げる。
「……本当に、回りますか?」
「回します」
私は迷いなく答えた。
「領が保証します」
空気が、わずかに動いた。ヴィクトールがゆっくりと立ち上がる。視線が一斉に彼へ集まった。
「俺は出資する。ここで逃げても、結局は王都の言いなりだ。それなら、賭ける」
沈黙。やがて二人、三人と、小さく手が上がっていった。
翌日、最初の信用証書が発行された。金額は小さい。それでも、止まっていた工房が炉に火を入れ、商人が仕入れを再開した。
「……市場が、少し落ち着いています」
マリアが安堵の息を漏らす。だが私には分かっていた。
市場が落ち着いたのは、証書が回ったからではない。回ると誰かが言い切ったからだ。言い切った人間が折れれば、同じ速さで戻る。
これは防御でしかない。まだ、何も勝ってはいない。
その夕刻、王都銀行から新たな通知が届いた。クラウゼン領内での金融行為に関する確認要請。
「……来たな」
ヴィクトールが低く言う。
「ええ。王都は、金融の独占を守りたいのです」
信用を作れば、必ず叩かれる。それでも私は、書簡を見つめながら静かに微笑んだ。
「記録が増えますね」
拒否されれば証拠になり、認めれば前例になる。どちらに転んでも、こちらの材料だ。
王都銀行が、辺境の一領地へ確認要請を出す。あの日、謁見の間にいた誰も、そんな書式が要る日が来るとは考えていなかったはずだ。追い出した先の帳簿を、いま王都が読まされている。
信用は壊れかけている。だが、完全には崩れていない。
そして今、王都とクラウゼンは同じ土俵に立った。
金融という土俵に。
ただ、この土俵がどこまで広いのかを知っているのは、まだ向こうだけだ。
土俵が変われば、相手の殴り方も変わります。
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