第19話 見逃された違和感
監査官が去った後、領主館は奇妙な静けさに包まれていた。
何かが終わったようでいて、何も終わっていない。
そんな感覚。
「……ひとまず、監査は通過ですね」
マリアが、控えめに言った。
「形式上は、です」
私は、帳簿を閉じる。
レオンハルトの報告がどう書かれるかは、分からない。
だが、少なくとも即時の介入はないだろう。
問題は、その先だ。
午後。
各部署から最終の中間報告が上がってきた。
水路の効果。
税収推移。
人員再配置の成果。
数字は、着実に改善している。
「……順調すぎますね」
マリアが、ぽつりと呟いた。
「警戒は必要です」
私は頷く。
「急激な改善は、疑われます」
「疑われる……?」
「“何か裏があるのではないか”と」
彼女は、小さく息を吐いた。
「でも、裏はありません」
「ええ」
「だからこそ、厄介です」
数字を改ざんしていない。
搾取もしていない。
それでも、早すぎる回復は、疑念を生む。
その時だった。
「……あれ?」
マリアが、別の帳簿をめくる手を止めた。
「どうしました?」
「いえ……」
彼女は、財務の細目を指差す。
「商取引税の推移が、少しだけ変です」
私は、彼女の隣に立った。
「どのあたりが?」
「取引件数は増えているのに、納付額が横ばいです」
確かに、わずかな差だ。
誤差と言えば、誤差。
だが――。
「内訳は?」
「王都系商会が、増えています」
一瞬、空気が止まる。
「具体的には?」
「小規模な支店が、ここ一月で三つ」
「すべて、新規登録」
「納付額が横ばいということは?」
「……免除規定を使っている可能性が」
私は、静かに息を吸った。
免除規定。
災害復興支援や、新規進出促進を理由に、一時的に税を軽減する制度。
――善意の制度。
「適用条件は満たしていますか?」
「書類上は、はい」
“書類上は”。
私は、机に指先を軽く打ちつけた。
「現地確認を」
「分かりました」
マリアは、すぐに動いた。
数刻後。
戻ってきた彼女の表情は、硬い。
「……実態は、倉庫だけです」
「活動はほとんどありません」
「ペーパーカンパニー、ですね」
私は、淡々と言った。
「名目上の進出で、免除だけ受ける」
「……王都、ですか」
「おそらく」
だが、証拠はない。
制度上の抜け穴を使っているだけだ。
「額は?」
「今のところ、微小です」
「だからこそ、ですね」
私は、帳簿を閉じる。
小さすぎる。
目立たない。
だが、確実に利益を吸い取っている。
「これが増えれば?」
「黒字転換は、遅れます」
私は、しばらく考えた。
――物語。
レオンハルトの言葉が、脳裏をよぎる。
数字で攻めるのではない。
制度を使って、合法的に削る。
「……巧妙ですね」
マリアが、低く言う。
「ええ」
私は、頷いた。
「正面から潰す気はない」
「じわじわと、“成功を遅らせる”」
「対策は?」
「二つです」
私は、紙を引き寄せる。
「一つ。免除規定の運用見直し」
「もう一つ――」
ペンを走らせる。
「“実態報告義務”の追加」
マリアが、目を見開いた。
「王都の承認が必要では……?」
「ええ」
私は、微かに笑った。
「だから、申請します」
正面から、堂々と。
「拒否されたら?」
「その時は――」
私は、窓の外を見た。
「拒否された理由を、記録します」
それ自体が、材料になる。
夜。
執務室に一人残り、私は改めて帳簿を開いた。
黒字予測は、まだ揺らいでいない。
だが、足元に小さな穴が開いている。
見逃せば、広がる。
「……まだ、甘いですね」
独り言が、静かな部屋に落ちる。
改革は、完成していない。
完成することも、ないのかもしれない。
だが。
私は、最後に一文を書き加えた。
――小さな違和感を、放置しない。
それが、生き残る唯一の方法だ。




