第20話 黒字転換、そして通達
その日、帳簿の数字は、はっきりと線を越えた。
「……出ました」
マリアの声は、抑えているのに震えていた。私は、最終計算の欄を見つめる。
歳入。歳出。補修費。再配置費用。商取引税の微減も織り込んだ上で――
「黒字です」
静かに、そう言った。一瞬、部屋の空気が止まる。そして。
「……本当に?」
「ええ」
私は、ゆっくりと頷いた。
「持続可能な黒字です」
「一時的な削減ではありません」
マリアが、両手で口元を押さえた。泣いてはいない。だが、その表情はこれまでの緊張をすべて物語っていた。最初にこの帳簿を運んできた朝、彼女は数字を読み上げる声が震えていた。
「……やりましたね」
「まだ、始まりです」
私は、冷静に言った。だが、胸の奥がわずかに熱い。
午後。主要役人を大広間に集めた。
以前とは違う空気だ。恐れではなく、期待。
「中間報告を行います」
私は、壇上に立つ。
「クラウゼン領は、本日付で黒字に転じました」
一瞬の沈黙。次に、小さなざわめき。そして、確かな歓声。
大きくはない。だが、抑えきれない喜びが、広間に広がる。
「水路修繕、税制再計算、部署統合」
「どれも、皆さんの働きの結果です」
私は、はっきりと告げた。
「この黒字は、誰か一人の成果ではありません」
ユリウスが、誇らしげに胸を張る。ハインツが、静かに頷く。マリアは、背筋を伸ばして立っている。
「ですが」
私は、言葉を続けた。
「ここで満足はしません」
静かになる広間。
「黒字は、目的ではありません」
「安定の手段です」
誰も、異を唱えない。今なら、通る。
会合が終わり、役人たちが散っていく。その背中は、以前とはまるで違っていた。
自分たちで立て直した、という自覚がある。命じられて動いた半年ではなく、自分の判断が一行の数字になった半年として、この人たちは今日を覚えるはずだ。
夕方。執務室に戻ったところで、兵士が慌てた様子で入ってきた。
「領主様」
「王都から、急使です」
――来た。
私は、静かに封書を受け取る。
王都紋章入り。正式文書。
マリアが、息を呑む。封を切る。内容は、簡潔だった。
――クラウゼン領の財政改善を受け、
――来期より王都納付税の再計算を行う。
――あわせて、辺境防衛費の一部負担を命じる。
沈黙。マリアが、かすれた声で言う。
「……黒字分を、吸い上げる気ですね」
「ええ」
私は、淡々と答えた。
「予想通りです」
黒字になれば、目をつけられる。それは、分かっていた。
「防衛費……?」
「実質的な増税です」
私は、書面を机に置いた。
「理由は、辺境の安定化」
「成果が出たからこその負担」
論理としては、正しい。改善したのだから負担できるだろう、というだけの話で、どこにも無理がない。だからこそ、狙いは明白だった。
――伸びすぎるな。
しばらく、誰も話さなかった。やがて、マリアが顔を上げる。
「……どうしますか?」
私は、少しだけ考える。
怒りはない。焦りもない。半年前なら、この一枚で膝が折れていた。今は、折れる前に何を差し出せば何が取れるかを数えている。
ただ、計算する。
「受けます」
「……はい?」
「正面から拒否はしません」
私は、書面を折りたたむ。
「ただし」
「こちらも条件を出します」
「条件……?」
「防衛費の用途明示」
「納付税再計算の透明化」
「そして――」
私は、窓の外を見る。街の灯りが、静かに瞬いている。
「クラウゼン領の自治権の明文化」
マリアが、息を呑んだ。
「それは……」
「王都は、均衡で動く」
私は、静かに言う。
「ならば、こちらも均衡で返す」
黒字転換。それは、終わりではない。
むしろ、宣戦布告に近い。机の上には、二つの紙。
黒字報告書。王都通達。
私は、ペンを取る。
「……次が始まりますね」
マリアの呟きに、私はわずかに笑った。
「ええ」
辺境の小さな領地は、今や、王都の視線の中心に立っている。
半年前、あの謁見の間で私を指さした人たちは、この帳簿を見ていない。見ていれば、罪状の一行目から書き直さなければならなかったはずだ。
もっとも、書き直す気があるなら、最初から読んでいる。
そして――私は、戦う準備ができていた。
準備ができた側から順に、流れは止められていきます。




