第15話 最初の反撃
異変に気づいたのは、偶然だった。
「……この数字、おかしくありませんか?」
執務室で帳簿を整理していたマリアが、首を傾げた。彼女の指先が示しているのは、先月分の歳入報告だ。
「王都提出用の写し、ですよね」
「はい」
「でも、こちらの控えと……一致しません」
私は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、二つの帳簿を並べた。
――確かに、違う。写しの方が、控えより赤い。
差は、わずかだ。一項目ずつ見れば、誤差と言われてもおかしくない。だが、積み重ねると意味を持つ。しかも、差はすべて同じ向きに寄っていた。誤差なら、両方へ散る。
「……修正されていますね」
「はい」
「こちらが出した数字より、赤字が大きく見えるように」
マリアの声が、わずかに硬くなる。
「誰が?」
「それは……」
彼女は言葉を切り、視線を落とした。
「王都向けの取りまとめは、財務補佐官のグレイが」
私は、記憶を辿る。
グレイ。改革初期から、目立った反発は見せていない。仕事も、最低限はこなしている。
――“無害”に見えるタイプだ。
「呼んでください」
数刻後。執務室に入ってきたグレイは、落ち着いた様子だった。
「お呼びでしょうか、領主様」
「この報告書について、説明を」
私は、二つの帳簿を示した。
彼の視線が、一瞬だけ揺れた。だが、すぐに整える。
「……書式の違いによるものです」
「王都向けは、保守的に見積もるのが慣例でして」
「慣例、ですか」
私は、淡々と返す。
「では、なぜその判断を、こちらに報告しなかったのです?」
「……細かい差ですので」
「いちいち、ご報告するほどでも――」
「“細かい差”が、何を生むか」
私は、言葉を遮った。
「分かりますか?」
グレイは、答えなかった。
「王都は、数字しか見ません」
「この報告を見れば、“辺境はまだ危うい”と判断する」
沈黙。
「それは、偶然ですか?」
「それとも――意図的ですか?」
グレイの手は膝の上で組まれたまま、指の関節だけが白くなっていた。窓の外では荷馬車が一台、いつもと同じ速さで通り過ぎていく。この部屋の外では、まだ何も起きていない。
しばらくの間、時計の音だけが部屋に響いた。私は急がなかった。急がなければ、たいていの人は自分から話し出す。
やがて、グレイは静かに息を吐いた。
「……指示が、ありました」
マリアが、息を呑む。
「誰から?」
「王都の……」
「商会関係者です」
その言葉に、私は内心で頷いた。
――カミラ。
「直接ではありません」
「“心配されている”と」
「“過度な成功は、目をつけられる”と」
「それで?」
「……調整すれば、角が立たないと」
“善意”を装った圧力。命じてもいないし、脅してもいない。心配してみせるだけで、こちらの帳簿が書き換わる。実に、王都らしいやり方だ。
「あなたは、どう思いましたか?」
私がそう問うと、グレイは苦しそうに顔を歪めた。
「……正直に言えば」
「改革は、正しいと思っています」
「では、なぜ?」
「怖かったのです」
声が、震える。この男は改革が始まってから一度も遅刻をしていないし、書式の細かさで部下に煙たがられてもいた。そういう人間が、いちばん先に折れる。
「王都に逆らえば、この領地ごと潰される」
「そう思ったら……」
私は、しばらく彼を見つめた。そして、静かに言った。
「あなたは、裏切ったわけではありません」
グレイが、顔を上げる。
「ただ――判断を、誤っただけです」
私は、机の上の書類を整えた。
「今回の報告は、私が訂正します」
「あなたは、財務補佐官から外れます」
「……処罰は?」
「降格です」
「職は残します」
マリアが、驚いたようにこちらを見る。
「学ぶ余地があるからです」
私は、そう付け加えた。
「ただし、次はありません」
グレイは、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
彼が去った後、マリアが口を開いた。
「……かなり、巧妙ですね」
「ええ」
私は、頷いた。
「直接攻撃はしてこない」
「数字を歪めて、“問題があるように見せる”」
「でも……」
「こちらが気づかなければ、です」
私は、窓の外を見た。夕方の領都は、半年前より人の足が速い。市が立ち、荷が動き、そのぶん王都から見える数字も膨らんでいる。膨らんだ数字は、そのまま的になる。
「幸い、今回は気づきました」
だが――。
机の上には、王都提出用の正式報告書が置かれている。まだ、提出前だ。
「次は、もっと上手くやってくるでしょう」
マリアが、静かに言った。
「ええ」
私は、否定しなかった。
「だからこそ――」
私は、新しい紙を取り出す。
「こちらも、次の手を打ちます」
ペン先が、紙の上を走る。
――情報経路の整理。
――報告書の二重確認。
――外部介入の記録化。
改革は、数字だけでは足りない。正しい数字を出しても、途中で書き換えられれば意味がない。守るための仕組みが要る。
そのことを、私は誰よりも知っていた。
「……本当に、戦いになってきましたね」
マリアの言葉に、私は静かに答えた。
「ええ」
「でも、まだ序盤です」
見えない反撃は、始まったばかりだ。
圧力をかけられた側に、思わぬところから人が増えていきます。




