第12話 数字に現れる変化
その日の執務室は、いつもより静かだった。
窓の外では、修繕された水路のそばで人の声が聞こえる。だが、部屋の中には、紙をめくる音とペンの走る音しかない。
「……揃いました」
マリアが、最後の帳簿を机の上に置いた。彼女の声は落ち着いているが、わずかに緊張が混じっている。
「中間報告、ですね」
「はい」
「水路修繕後の試算と、税制変更後の推移です」
私は、深く息を吸い、数字に目を落とした。
歳入。歳出。修繕費。人件費。
一つひとつ確認していく。感情を挟まない。期待もしない。期待を持って読んだ帳簿は、必ず良く見える。
そして――。
「……来ましたね」
思わず、そう呟いた。マリアが、息を止めたようにこちらを見る。
「どう、ですか……?」
「今期は、まだ赤字です」
「ですが」
私は、指で次の列をなぞる。
「次期予測では、黒字に転じています」
「しかも、余剰が出る」
一瞬、マリアは理解できないという顔をした。そして、次第に目を見開く。
「……本当に」
声が、震えていた。
「はい」
「無理のない範囲で、です」
私は、念を押すように続ける。
「一時的な削減や、民を締め上げた結果ではありません」
「構造を変えた結果です」
マリアは、帳簿を両手で押さえたまま、動かない。そして――ぽつりと、言った。
「……やった」
とても小さな声だった。だが、その一言に、これまでの緊張が全て詰まっていた。
「やっと……報われる数字が出ましたね」
「ええ」
私は、静かに頷いた。
「でも、ここからです」
マリアが顔を上げる。
「……はい?」
「成果が出始めた、ということは」
私は、窓の外へ視線を向けた。
「必ず、誰かの目に入るということです」
マリアは、一瞬だけ言葉を失った。だが、すぐに理解したように、表情を引き締める。
「……王都、ですね」
「ええ」
私は、淡々と答える。
「これまで見向きもされなかった辺境が」
「“自立の兆し”を見せた」
それは、歓迎されることばかりではない。困っている土地は放っておかれるが、立ち直りかけた土地には必ず人が来る。取りに来るのか、止めに来るのかは、まだ分からない。
午後。農政と財務の合同報告会を開いた。
数字は、全て公開する。良い点も、悪い点も。
役人たちの反応は、明らかに変わっていた。懐疑ではなく、前のめりだ。
「次は、どこを改善すべきでしょうか」
「この余剰、どう使いますか」
――質問の質が変わっている。
「次は、教育と人材です」
私は、はっきりと告げた。
「この領地を支えるのは、人です」
「仕組みだけでは、続きません」
誰も、反論しなかった。会合が終わり、執務室に戻ると、ハインツが待っていた。
「水路の件、他の村からも要望が来ています」
「当然です」
私は、軽く頷いた。
「ですが、順番を守ります」
「焦れば、同じ失敗を繰り返します」
「……分かりました」
彼の声には、完全な信頼があった。
夕暮れ。執務室で一人、帳簿を閉じる。
確かに、数字は好転している。だが、まだ脆い。積み上げた余剰は一年ぶんもなく、外から一撃を受ければ簡単に崩れる。内側だけを直した領地は、外側からの一手にどうしても弱い。
その時だった。マリアが、扉をノックする。
「……報告があります」
「どうぞ」
彼女は、一枚の書簡を差し出した。
「王都から、です」
私は、静かにそれを受け取った。
封を切る前から、内容はおおよそ想像できた。それでも確認はする。想像で動けば、想像した通りの相手としか戦えなくなる。
――財政状況の報告を求める。
短い文面。だが、意味は重い。
私は、書簡を机に置いた。
「……来ましたね」
「はい」
マリアの声は、落ち着いていた。以前とは違う。
「準備は、できています」
「ええ」
私は、ゆっくりと立ち上がる。
「こちらから隠すことはありません」
「ただし、主導権も渡しません」
窓の外では、灯りが一つ、また一つと灯り始めている。この街は、もう沈まない。
だが――。
「ここからが、本当の勝負です」
その言葉を、私は胸の中で繰り返した。
ここまでは、内側だけで完結する話だった。
次は、外からの圧力を受け止める番だ。
前に進む改革には、必ず置いていかれる側がいます。




