第11話 水路一本で変わる景色
水路の修繕は、思っていたよりも静かに始まった。
大規模な工事ではない。鐘も鳴らさない。式典もない。
ただ、朝から人が集まり、土を掘り、石を運ぶ。それだけだ。
「……本当に、ここだけでいいのですか?」
現地で指揮を執るハインツが、地図を見ながら尋ねた。
「ええ」
私は頷いた。
「全体の水量を見てください」
「ここが詰まっているせいで、下流が死んでいます」
水路は長い。全てを直そうとすれば、時間も金も足りない。だが“要所”は必ずある。詰まりは一箇所でも、死ぬのは下流全部だ。逆に言えば、一箇所を通せば下流全部が戻る。
「ここを通せば、流れは戻ります」
「……なるほど」
ハインツは、納得したように頷いた。
工事に参加しているのは、領兵数名と、近隣の農民たちだ。賃金は出す。だが、強制はしていない。
それでも、人は集まった。前の年に呼ばれた賦役では、半分も来なかったとハインツが言っていた。
「今年、税が下がったからな」
「少しでも、畑を戻したい」
そんな声が、あちこちから聞こえる。
私は少し離れた場所で、その様子を見ていた。マリアが、隣に立つ。
「……不思議ですね」
「何がですか?」
「昨日まで、“どうせ無駄だ”って顔をしていた人たちが」
「今日は、自分から動いています」
私は、鍬を振るう人々を眺めながら答えた。
「希望が見えると、人は動きます」
「逆に、どれだけ命令しても、先が見えなければ動きません」
昼過ぎ。詰まっていた石と土が、ようやく取り除かれた。
「……来ますよ」
誰かが、そう呟いた。
次の瞬間。乾いていた水路に、音が戻る。
最初は細く、頼りない流れ。だが、次第に勢いを増し、下流へと走っていく。
「……水だ」
誰かが、声を上げた。
畑の方から、ざわめきが起きる。土が、色を変えていく。乾いた灰色から、濃い茶色へ。
「本当に……戻った……」
リリアが、水路の端にしゃがみ込み、流れを見つめていた。
「これで、畑が……」
「ええ」
私は、彼女の隣に立った。
「全部じゃありません」
「でも、ここは確実に戻ります」
彼女は、何度も頷いた。
夕方。畑を見回ると、変化は一目瞭然だった。
まだ芽は出ていない。だが、土が生きている。指で押せば沈む程度には水を含み、朝には霜ではなく露が降りるようになるはずだ。
芽が出るまでに何日かかるのかは、まだ誰にも分からない。
「……これだけで、違うんですね」
マリアが、感慨深そうに言う。
「ええ」
「だから、最初は“一本”でいい」
私は、ハインツに視線を向けた。
「次は、ここから分岐する水路です」
「同じやり方でいきましょう」
「了解しました」
彼の声には、迷いがなかった。
領主館へ戻ったのは、日が落ちてからだった。疲労はある。だが、それ以上に、確かな手応えがあった。
執務室で、帳簿を開く。
修繕費。人件費。資材費。
――安い。
全面改修に比べれば、十分の一以下だ。それでいて、効果ははっきりしている。
「……これは」
マリアが、数字を見て目を見開く。
「来年の収穫予測、上方修正できます」
「ええ」
私は、静かに息を吐いた。
「しかも、保守費用も下がります」
「無理のない設計ですから」
机の上に、新しい報告書が置かれる。農地回復見込み。税収回復予測。
どれも、まだ“予測”に過ぎない。だが、根拠のある予測だ。
「……領地が、生き返っています」
マリアの言葉に、私は首を横に振った。
「いいえ」
「元々、生きていました」
「ただ――」
私は、窓の外、夜の街を見た。
「塞がれていただけです」
その夜。領都の酒場では、久しぶりに明るい声が響いていた。
「水、戻ったらしいぞ」
「今年は、いけるかもしれん」
噂は、数字より早く広がる。そして、それは必ず王都にも届く。届いたとき、向こうが最初に考えるのは、この土地が豊かになったかどうかではない。取れる額が増えたかどうかだ。私を追い出した人たちが、その数字を数えることになる。皮肉のつもりはない。たぶん、そういう仕組みなのだ。
私は机に向かい、次の書類を手に取った。
――財政中間報告書。
ここから先は。成果を、守る段階に入る。
それが、どれほど厄介なことか。
私は、よく知っていた。
変化が数字に出るころには、それを面白く思わない人も出てきます。




