第10話 農業税の再計算
領主館の執務室に、久しぶりに柔らかい空気が流れていた。
机の上に広げられているのは、農地ごとの収穫予測と税額一覧。
だが、そこに並ぶ数字は、これまでとは明らかに違っている。
「……本当に、下がっている」
マリアが、信じられないという表情で呟いた。
「ええ」
私は頷いた。
「正確には、“適正になった”だけです」
これまでの農業税は、前年踏襲が当たり前だった。
収穫量が減っても、税額は同じ。
結果、農民は無理をし、土地は痩せ、さらに収穫が落ちる。
――悪循環。
「今年は、実収穫ベースで再計算します」
「取れなかった分は、取りません」
その一文を書き入れた瞬間、数字は一気に変わった。
「歳入は……」
マリアが計算し直す。
「短期的には、減りますね」
「ええ」
私は迷わず答えた。
「でも、問題ありません」
「来年、戻ります」
「……本当に、ですか?」
不安を隠しきれない声。
それは当然だ。
領地運営において、税収減は恐怖そのものだ。
「農民が生き残れば、来年があります」
「農民が潰れれば、何も残りません」
私は、静かにそう告げた。
午後。
修正された税額を携え、再び集落を訪れた。
リリアの村だ。
人々の表情は、相変わらず厳しい。
だが、以前よりも、どこか張り詰めた緊張が薄れている。
「領主様……?」
私の姿を見つけ、リリアが駆け寄ってきた。
「お話があります」
集落の中央に、人が集まる。
私は、紙を一枚広げた。
「今年の農業税を、再計算しました」
ざわり、と空気が揺れる。
「収穫量に応じた額です」
「去年と同じだけ、取ることはしません」
沈黙。
誰も、すぐには理解できない。
長年、“そういうものだ”と信じ込まされてきたのだ。
「……つまり」
年配の男性が、恐る恐る口を開いた。
「今年は、少なくて……いいのですか?」
「はい」
私は、はっきりと頷いた。
「今年は、今年分だけです」
次の瞬間。
誰かが、深く息を吸う音がした。
「……助かる」
小さな声。
だが、それを皮切りに、ざわめきが広がる。
「本当に……?」
「これで、冬を越せる」
「子どもを、街に出さずに済む」
リリアは、紙に書かれた数字を見つめたまま、動かない。
指が、わずかに震えている。
「……これ」
ようやく、声を絞り出す。
「これなら……」
「畑を、全部、手放さなくていい……」
私は、彼女の言葉に、静かに頷いた。
「そうです」
「来年に、つながります」
リリアは、しばらく何も言わなかった。
そして――突然、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
続いて、周囲の人々も頭を下げる。
誰も、声を荒げない。
だが、その背中から伝わってくるものは、重かった。
「顔を上げてください」
私は、少しだけ声を和らげた。
「これは、施しではありません」
「正しい計算の結果です」
それでも、リリアは顔を上げたまま、目を潤ませていた。
「……来年、頑張ります」
「ええ」
私は微笑んだ。
「一緒に、立て直しましょう」
領主館へ戻る馬車の中。
マリアは、ずっと黙っていた。
やがて、小さく呟く。
「……数字が、人を救うのを初めて見ました」
「そうですね」
私は、窓の外を見ながら答えた。
「数字は、冷たいものです」
「でも、正しく使えば、嘘をつきません」
夕方。
修正後の税収を反映させた帳簿が、完成した。
赤字は、まだ消えていない。
だが、落ち込みの角度は、明らかに緩やかになっている。
「……底は、打ちました」
マリアの言葉に、私は静かに頷いた。
「ええ」
「次は、増やす段階です」
机の上には、新しい計画書が置かれている。
――水路修繕計画。
この領地は、もう下を向かない。
少なくとも。
そう信じられるだけの数字が、そこにはあった。




