第三章 意地とプライド10
二階席、駅から出て来る人を一望した明日歩は、もう一度あずさに、大丈夫と尋ねる。
「大丈夫ですよ。それより先輩、部活は?」
「辞めた」
あっさり明日歩に答えられ、あずさの大きな瞳をさらに大きして驚く。
「本当に辞めっちゃったんですか?」
改めて訊かれ、グッとくるものがあった。生活の一部だったものが、急になくなるのは変な感じがする。正直、今はその話題に触れられたくはないかもと、ぎこちない笑みを向ける明日歩に、あずさは容赦なく訊いてくる。
「まさかとは思ったけど、本当に辞めっちゃったんですか?」
「今日、退部届出してきた」
じっと見詰められて、耐えられなくなった明日歩は俯く。
「本当にそれで良かったんですか?」
良いとか悪いとかの問題ではない。仕方がないことなんだ。説明するのも、かったるく思えた明日歩は、言葉を探す。
「先輩?」
顔を覗き込むように聞いてくるあずさに、明日歩は辛うじて笑みを作ってみせる。
「まぁしゃーないでしょ」」
言いながら、自分に言い聞かせる明日歩だった。
そんな明日歩をにこりともせずに、あずさはじっと見詰める。
明日歩はその瞳をまっすぐ見るのが怖かった。
何もかもを視とおされてしまいそうで、しかし、あずさには分かって欲しいと、心のどこかで思っている自分が居た。
「先輩、無理しているでしょう?」
「無理なんかしてないよ。清々してるよ。これで何の気兼ねなくバイトにも行けるし、前から行きたいと思っていたライヴとか、遊びとかにも行けるしな。あれだったら今度の日曜、どっか遊びに行く?」
最後の方は明日歩の願望である。
言ってしまってから、ハッとあずさを見る。
言われた本人はまるで関心がないように、しばらくストローを弄んでからフッと明日歩を見てくる。
「先輩、嘘はダメですよ」
「嘘なんて」
「目が、悲しよって言ってます」
「そんなこと……」
言いかけた明日歩は目を瞠る。
真剣なまなざしで見つめるあずさの目から、涙が零れ落ちていた。
やっぱりあずさにはかなわないと、明日歩は観念する。
「正直ショックだったかな。走るの好きだったし、でもあそこまで言われちゃうとなぁ、やせ我慢もするしかないっしょ。意地とかプライドとかもあるし、それに、金、大事あるよ」
「お道化ないでください。先輩、せかっく頑張って来たのに、全部台無しになっちゃうんですよ。そんなの悔しいじゃないですか。意地とかプライドとかそんなもの、どうでも良いじゃないですか。先輩は自分を知らなすぎです。走っている先輩は本当にきれいで、キラキラしているんです。だからね、辞めたらだめです」
涙ながらのあずさの力説に、明日歩は圧倒させながら言い繋ぐ。
「好きでもどうしようもないことって、あるじゃん。オレ、バイト辞めるわけにはいかないし、仲間とかに迷惑かけるわけにもいかないしさ」
「それは違うと思います。迷惑だったらもうとっくに、ハブられているでしょ。先輩が今しようとしていることこそ、裏切りです」
きりっとした目で言われ、明日歩は息を飲む。
「でも、もう退部届出しちゃったしな」
「そんなの、御免なさいって謝って、撤回すればいいじゃないですか」
「簡単に言うね」
「簡単ですよ。幼稚園児だって出来ます。先輩は何歳ですか? それも意地とかプライドとかが邪魔するんですか? 私の知っている先輩は、もっと謙虚で優しくて、走るのが大好きで、まっすぐな目を持っている人です」
痛いところつかれて、明日歩はむっつりとなってしまう。バイト先で見るあずさとはまるで別人のように思えた。見つめられて、目が外せなくなる。知美とまた違う強さを感じるあずさだった。
「できないよ」
絞り出すように言う明日歩に、あずさは言葉を切らなかった。
「私は反対です。絶対先輩は走るべきです。意地悪なんかに負けないでください。認めさせてやろって、気負うってください。それで先輩が苦しくなったら、私どんな手助けもします」
あずさの気持ちは嬉しかった。
明日歩とて、迷いはある。
あずさの気持ちに応えられる言葉が見つからなかった明日歩は、コーラを一気に吸い上げて、噎せる。
「大丈夫ですか? 炭酸をそんな勢いで飲むから。それにしても先輩って案外、男していますね」
涙目になっている明日歩に、あずさはそう言いながら、紙ナプキンを渡す。
「一応、男17年間してます」
「そういうことじゃなくってなんていうか、私ずっと先輩ってもっと軟弱な人かと思っていました。線も細いし、いつ見てもニコニコとしているし、この人、怒ったことがあるのかしらって思うくらい、優しいし。皆が王子様っていうの分るなって」
あずさはそこまで言って、ハッと自分の口を手で塞ぐ。
「深い意味じゃなくって、一般論ですよ。誤解しないでください」
無意識に、明日歩はあずさの頭を撫でる。
「ありがとう。そう言ってくれるの、結城さんだけだよ」
「そんなこと、ないですよ、先輩、案外鈍感だから、気づいてないだけですよきっと」
ばつが悪くなったあずさは、窓に視線を移す。
「ならいいけど」
しんみりとした気分になった明日歩も倣って、外をぼんやりと眺める。
疲れた、の一言に尽きる一日だった。
森崎に痛いところを突かれて、転がるように事態が展開していった。
何となく目が合い、明日歩が先に席を立つ。
帰り道、二人は言葉数少なく歩いていた。
坂を上りきり、一旦立ち止まったあずさが、明日歩に何か言いたげに見るが、何も言わず自転車を漕ぎだす。
何を思ったのか信号を渡り切ったあずさが、応援を始める。
まだ人通りがある時間だった。
恥ずかしいやら嬉しいやらで、明日歩は早く行けと言う意味合いで、手を払って見せる。
ピョンピョン跳ねながらしばらく手を振ったあずさが行ってしまい、明日歩は肩を窄める。
ほんのり募る温かいものの正体が、何かを知るべく克己にメールを打つ。
だいぶ遅れて返事が戻って来た。
おめでとう、それは恋です。キッスはお早めに。
克己らしいメールに、明日歩は頬を緩ます。
恋か……。やっぱそうか。
そう思っただけで、明日歩は、耳まで赤くなる。
思わず叫びたくなった明日歩は衝動を抑えるため、布団を頭から被る。
悔しいが、歩が言ったとおりだと思う明日歩だった。




