2-2
「それじゃ、今日は直帰して、明日は通常通り出勤してくれ」
「はい。あなたは?」
「公的機関には書類ってもんがあるんだよ」
そう言い残して、ベンはSUVのドアを閉める。
郊外の古いアパートメント前。街灯の明かりは弱く、夜の気配が地面に滲んでいた。
「……夢見が悪そう」
メイジーはぼそりと呟きながら、スーツパンツのポケットを探る。アパートの鍵を取り出そうとしたそのときだった。
「好」
……すぐ背後で、声がした。
反射的に振り向くと、数メートル後ろにひとりの少女が立っていた。
年の頃は16歳から18歳。小柄で痩せた体つきに。真っ黒な長い髪がツインテールで結ばれ、腰のあたりで毛先が揺れている。
「あー、中国の子?」
言いながら、メイジーは無意識に一歩後ずさった。
街灯の下にもかかわらず、白と赤の特徴的な装束に意識が持っていかれ、少女の表情ははっきりしない。まるで顔にだけ光が届かないようだった。
「鎖匙佇袋仔內無,佇包仔內」(鍵を探してるなら、そのポケットにはない。鞄の中よ)
「え? ええ、ありがとう」
返事をしながらも、メイジーの背中には汗が滲み始めていた。
何かが、おかしい。
少女は微笑んだ……ように見えた。が、それは街灯の下でどこか無機質に感じた。
「你是誰?」(あなたは誰?)
そう尋ねようと振り返った瞬間……
少女は消えた。
ふっと、そこにいた空気だけが沈黙を残して揺れた。
人の気配も、足音も、風すらなかった。
「……なんなのよ」
声が震えるのを止められず、メイジーは震える手で鍵を差し込み、素早くドアを閉めた。
部屋までの階段を速足で上り、扉の向こうに現実があると信じたくて、何度もチェーンロックを確認した。
引っ越してきたばかりの家具付きの部屋の中は、外よりもひとまわり静かだった。
急いでカーテンを閉め、靴を脱ぎ、明かりをつける。
テレビもつけようかとリモコンに手を伸ばしたが、画面に映る虚ろな人物たちが今の自分を見ているようで、すぐに消した。
メイジーはソファに倒れこみ、腕で顔を覆う。
(なんなのよ、もう……)
目を閉じると、少女の顔が思い出された。
あれは本当に人間だったのか。あれほど近くにいたのに、声しか覚えていない。目は?鼻は?笑った?それとも笑って『いた』ふりをしていた?
スマホを取り出し、ベンにメッセージを送ろうとする。
『さっき、アパートの前に誰かいて~』
そこまで書いて指が止まった。
なんて送るつもりだ?
「ツインテールの少女が出てきて、鍵のありかを珍しい発音の中国語で教えてくれたが、表情はわからなくて……直後に消えた?」
まるで、くだらないホラー番組じゃない。
しかも、昨日今日あったばかりのベンに、これを送ってどうなる?
『すぐに慣れる』とでも言われるのがオチだ。
メイジーはため息をつき、スマホを伏せた。
と、そのとき……
カリッと何かをひっかくような音がした。
台所の方から、小さく硬いものが床に落ちたような音……息を止めて耳を澄ます。が、それ以降は何も聞こえない。
(……ネズミ?)
連邦ビルのあるウェストブリッジ市内で、現実的に通える距離で最も安いアパートだったからあり得る話だ。
メイジーは再びため息をつくと面倒くさそうに立ち上がって台所に向かい……
コンコンっと背後から聞こえた音にびくっと振り返る。
カーテンの隙間、バルコニーに先ほどの少女が立っていた。
「ひっ、こ、ここ四階よ!?」
メイジーが思わずあとずさると、少女は小さく肩をすくめて何事か呟きながら窓に触れる。
すると、窓を封鎖していたロックがするすると外れ……
「止まりなさい!ICE捜査官よ!」
彼女が何の障害もなかったかのように窓を開くと、メイジーは思わずつけっぱなしだったホルスターから拳銃を取り出していた。
「誰かは知らないけど不法侵入よ! すぐに警察が」
「まったく、DHSとはこの程度なんですか?」
少女がすっと腕を振った。
それだけで、メイジーの持つシグザウエルが目に見えない衝撃波で叩き落とされる。
身体も、まるで目に見えない巨人に胸を押されたかのようにソファへと激しく吹き飛ばされた。
「失礼?」
息が詰まる。が、ソファに押し倒されたメイジーは、とっさに足を伸ばし、地面の拳銃を引き寄せようとするが、床に転がったそれはまるで磁力でも働いているように微動だにしなかった。
「……二人。いや三人、か」
そう呟いた少女の目線は、メイジーの背後の誰もいないはずの壁の隙間や暗い天井の隅を冷たく見つめていた。
そのまま少女はゆっくりと、室内に入ってくる。
歩みは静かで、音がしない。絨毯の上を歩いているのではなく、空気を踏みしめているようだった。
「失礼、って何がよ……」
メイジーが震える声で言うと、少女はふっと目を細めた。
その表情には、冷ややかな侮蔑、いや、哀れみともつかない色があった。
「何の知識も覚悟もなく踏み込んだんですか? こんなに寄ってきてるのも当然ですね」
「寄ってきてるって……何のこと?」
少女は返事をせず、代わりに視線を部屋の中へとゆっくりと流した。
まるで、そこに何か『他のもの』を探しているように、あるいは誰かと重ねて見ているかのように。
「この部屋。こんなに集めて民泊でも始めるつもりなんですか?」
「そんな営業なんてしてないわよ、あなたが勝手に」
少女は、小さくため息をつくと……赤と白の装束の袖口から札を取り出すと素早くソファーに押し付けられるメイジーの額に張り付けた。
「黙ってじっとしていてください。とりあえず今夜はこれで大丈夫」
そういうと少女は来た時と同じように音もなく、バルコニーに歩き去った。
「それじゃ、おやすみなさい。再見」
「待ちなさい!」
ふわっとバルコニーから身を躍らせた少女を追うように、拳銃を拾ってバルコニーから身を乗り出し、少女の姿を探す。だがそこに、すでに誰の気配もなかった。
階下の植え込みにも、隣のベランダにも、それらしき影はない。落ちた音も、逃げた足音もなかった。
「……消えた?」
言葉にした瞬間、背筋がぞくりと震えた。
『再見』。そう、少女は確かに言った。
まるで、次も来るのが当然だというように。
メイジーは扉をぴしゃりと閉め、バルコニーの鍵を二重にかけた。
部屋の電気をすべてつけ、暗がりを消そうとしたが、逆にその明るさが心細く感じられる。
ソファに戻り、何気なく額に手をやる。
さっきの札が、視界の隅でまだぴたりと貼られたままだった。
はがすのをためらうように、指先が止まる。
(今夜はこれで大丈夫……って、どういう意味よ)
そう問いかけようとしたが、自分の中にも答えがなかった。
ただ……札から微かに漂う温度のない匂いと、少女の残した声だけが部屋の中に静かに漂っていた。




