1-6
「そういうわけで……今回の件だが」
シモンが新たに鞄から取り出したタブレットをデスクに置くのとほぼ同時、廊下の奥からドタバタと靴音が響いた。
「……面倒ごとだな」
シモンは小さくため息を吐き、椅子を引いた。
ベンがドアを開けると、青ざめた顔にボールペンを握りしめた中年の男が、額に汗を浮かべて突っ立っていた。
「あの人、さっきすれ違った……」
「不法滞在者だな」
「俺はまだ死んでいない!」
その言葉は叫びというより、縋るような呻きだった。
男の肌は生気を失っていたが、ただの蒼白ではない。
不自然な灰色が頬に滲み、呼吸らしき動きもどこかぎこちなかった。
「まったく……そちらで対応を?」
シモンがちらりとベンに目をやる。
「いや、大使館内は天界の地位協定下だろ? EROの捜査権限はおよばない」
ベンが肩をすくめる。男はそれを聞いて逆上したようにボールペンを振り回し、廊下に集まりはじめたスーツの天使たちへ威嚇するように叫んだ。
「ふざけんなよ、メン・イン・ブラック共! 俺はアメリカ国民だ、政府にこんなことされる筋合いはない! 見ろ、IDだってある!」
シモンは顔をしかめ、ドアのそばに立っていた黒服の一人に静かに尋ねる。
「彼の担当は?」
「天使パウエルです」
「ああ、あの新人か。……担当オーバーで処理が間に合わなかったのも、まぁ無理はないな」
「ええ。天使に叙されて、まだ138年目ですから」
「あぁ、まだ若い。失敗を繰り返して学ぶのがいいだろう」
シモンが小さく苦笑すると、男が怒号を上げながら警棒を構えた天使たちの間を押しのけようとした。
その瞬間。
「どけぇっ!」
ベンの手元が小さく光り、男の脛が空中に派手に引っかかる。
男は勢いのまま床に倒れ、したたかに額を床にぶつけて呻いた。
「オー、痛そう」
シモンが眉をひそめる中。ベンはまるで握りつぶすように手元の光をかき消した。
「強制送還を嫌がって暴れる魂は少なくない。特に今の時代は、信仰よりも個人の権利が重視されるからね。……まぁ、それ自体は素晴らしいことなんだが」
シモンや天使たちに見下ろされながら床に倒れた男は鼻を押さえながらもがいていたが、やがて黒服の天使たちに抱えられ、抵抗むなしく廊下の奥へ連れていかれた。
その背を見送りながら、メイジーが震える声で問いかけた。
「……彼は、これからどうなるんですか?」
シモンは一度まばたきをしてから、テーブルの上に置いていたタブレットを手に取った。
「どうやら、審判のための調書作成中だったようだ。少し騒いだ程度なら、記録に残ることもない。……幸い、怪我人も出なかったしね」
その声に、メイジーの胸の奥にひとつの冷たい現実が落ちた。
死者の処遇はを決める手続きは、きっと信仰によらないのだろう。
「どうして暴れたんでしょう? 不利になることだって……」
「死んだから、調書を作成する。といきなり言われて受け入れられるか?」
ベンが小さくつぶやき、メイジーは力なく首を振って見せた。
「そうそう、また問題が起こる前に君に伝えておきたいことがある。昨夜の件で直接ね」
シモンはそういうとタブレットを仕舞い、再び年季の入った革の手帳を取り出した。
「重要なことはこちらにメモするようにしてる。今の機械は優秀だが……50年前にマグダラの同僚に教わったファラフェルのレシピを記録していたのに消えてしまってから電子記憶媒体、特にフロッピーディスクはトラウマでね」
そして、手帳から一枚の写真を取り出すと、ベンに手渡し、メイジーも横からのぞき込む。
「この子は?」
「保護後、本人も状況を理解してね。天界の社会保障番号カードを作成するのに撮影した写真を一枚残したんだ」
メイジーが首を傾げ、楽しげに笑う少女の写真。「ありがとう!」と書かれた証明写真を見つめていると、シモンは微笑んで見せた。
「昨夜、彼女を逮捕したERO捜査官に礼が言いたいそうだよ。あいにく即時送還が決まっていたので直接は難しいが……天界でご両親が待っておられたらしい」
「ありがとうございます、聖ケファ」
ベンが不器用にほほ笑みながら生前の写真を返すと、シモンは再び柔らかく微笑んだ。
それはまるで宗教画から抜け出したかのような慈愛に満ちたほほえみだった。




