1-5
「昨日の子だが、まぁ、いつも通りのオーバーステイだった。すでに強制送還されたよ。 あの手の子供は審査もスムーズだ」
面談室に紙のめくれる音が静かに響いた。
シモンは小ぶりな手帳を親指で器用に繰りながら、まるで天気の話でもするように淡々と告げた。
「まあ、いつも通りだな」
ベンは小さく肩を竦めて答える。皮肉のような苦笑が浮かんでいたが、どこか諦めの色も混じっていた。
が、メイジーには会話が掴めない。
彼らにとっては日常なのかもしれないが、今の彼女にはまるで暗号のようだ。
「その、いいですか?」
戸惑いながら口を挟むと、シモンが手帳を閉じて顔を上げた。
好奇心をたたえたまなざしに、わずかに笑みが滲む。
「もちろん。師匠も我々弟子の質問を嫌わなかった。もっとも、『問いは行動で示せ』が口癖だったから、議論ってほどでもなかったけどね」
その軽口に乗る余裕はなく、メイジーはまっすぐ問いかけた。
「オーバーステイって……本当にビザとか、そういう話なんですか? それに、ここって……何なんです?」
彼女の視線が部屋の外へと泳ぐ。
冷たい蛍光灯に照らされた廊下、落ち着きなく行き交う職員たち、そして壁に貼られた「検疫所(動物霊についての取り扱い)」のステッカーに目をやると、現実と常識が軋む音が聞こえてくるようだった。
シモンは静かに頷くと、膝に置いた手帳を指先でトントンと叩いた。
「いい質問だ。思うに……君たちの部署じゃ、いまだに研修もなく、現場たたき上げのOJTが主流らしいな」
「は、はあ……?」
メイジーは困惑しながら曖昧に相槌を打つ。
「まぁ、いい。地上の流行り廃りはその時々だからね。なぁ、ベニー?」
ベンが無言で肩をすくめるのを横目にシモンは手帳を閉じた。
「さて、ここは、公式名称はいろいろあるんだが、一番通りがいいのは天界大使館。正確には領事館扱いなんだが……まぁ、現場の連中は単に大使館って呼んでる」
「大使館……?」
「そう。主権のある領域として、天界法と十戒、さらにはその補則に基づいて運営されている。で、オーバーステイってのは、文字通り滞在期限の超過。天界や地獄の許可なく、現地政府の認可なしに地上に魂が長く留まること。つまり……」
シモンは手帳の端を再びトントンと叩いた。
「死者が審判を受けずに、居座ることだ。アジアなんかじゃ転生の順番待ちに加わらないことも言うらしいが、まぁ、平たく言うなら……」
メイジーは「ゴースト……」と呟いた。
背筋に冷たいものが這い上がってきた。
喉が乾き、思わず自分の胸に手を当ててしまう。
「そう、平たく言えばね。彼らは大抵は本人の未練や執着に縛られてる。まあ、事情はそれぞれだ。だが、地上に留まるには滞在資格が必要になる。魂の在留カードってわけだ」
「そんなの……どこで申請するんですか?」
「君も持っている肉体だよ。持っていないなら一時滞在許可か、労務局が出す就労ビザ。つまり、魂が地上で何のために留まってるかに応じて、どっちの管轄かが決まる。未練か、仕事か」
ちょうどすりガラスの向こうで廊下を、スーツ姿の男がファイルケースをぶつけながら通り過ぎた。
分厚い表紙に貼られた『労務局』のステッカーがやけに目に残った。
「就労ビザ……?」
メイジーは反射的に聞き返したが、自分でも信じられない気持ちだった。
「死んでまで、働かなきゃならないなんて」
シモンは苦笑を浮かべた。
「そう! まったく、アジア人もびっくりのブラックな職場さ。終身雇用どころか、死後雇用だ」
冗談のような事実に、メイジーはしばらく黙り込んだ。
ようやく口を開くと、声は少し震えていた。
「……強制送還って。まさか、天国に?」
「そう。不法滞在は条約上即時送還。地獄行きか、天界か、それはまぁ、師匠のお父様の部署の判断になる。死んだってわかって審判を受ける立場になれば大抵の魂は悔い改めるよ? なにせ、師匠はそのために磔になったんだ。彼のお父様の教えが、審判の根本にあるからね」
どこかでゴクリと音がした。メイジー自身の喉が鳴ったのだ。
ベンがそれに気づいたのか、ぼそりと呟いた。
「そういうわけで、オーバーステイの中には死んだこともわからず留まる連中が一番多い。文字通り在留ビザ切れの不法滞在ってわけだ」
シモンの口元がわずかに緩みかけたが、すぐに硬く引き締まった。
「…例えば、ついこの間。30年も自分が死んだことに気づかずに、通学路で生徒を待ち続けた教師がいた。毎朝決まった時間に現れて、雨の日も風の日も、笑って立ってる。当時担当だったFBIやUSMSが何度かオーバーステイであることを伝えてビザの更新も勧めたんだが……EROとして引き継いだベニーが行政代執行で連れてきてようやく自分の状態に気が付いて……まぁ、そういうケースが多い」
重たい沈黙が部屋を満たす。机の上の時計の針の音だけが、静かに進み続けていた。




