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ベンが古い日本車のバックドアを閉めると、アジア系スーパーの袋から馬告特有の、柑橘に似た鋭い芳香が漏れた。
少女の姿が、夕暮れのポートランドの光に溶けるように、すでにその輪郭を希薄にしている。
「ほら、ガントリーとフォークに気を付けろよ」
鉄の臭いと機械油、それにコロンビア川を遡ってくる太平洋の風に、少女の長い髪がふわりと広がった。
錆びついたクレーンや、古びたコンテナが並ぶ河川港の風景は、かつて彼女が知っていた「木造の桟橋」とは似ても似つかない。
それでも、水面に反射する朝日の煌めきと、潮の香りは、何ひとつ変わっていないだろう。
「懐かしいな」
少女は小さく笑うと、コンクリートの岸壁へと歩み寄り、水面にそっと手をかざした。 きらめく日の帯が、彼女の足元から川の向こうへと、まるで臨時の桟橋のように真っ直ぐに伸びていく。
「油臭いだろ、お嬢さん。行く気なら気を付けろよ、この時期は交通量が多いんだ」
少女は振り返り、悪戯っぽく微笑む。
「船乗りは変わらないね。ありがとう、道士様」
その声に呼応するように、コロンビア川の水面が僅かに揺れ、内陸へと遡る潮の香りが一気に強くなった。
少女がふっと息を吹きかけると、錆びついたガントリークレーンさえもが一瞬、往年の木造帆船のパストラルな影をまとったように見えた。
少女の姿が水面から数メートルはあるコンクリートの岸壁の影へと滑り込むように消えた。
スピーカーからの静かなリリックだけが、現世の港に虚しく響いていた。
「令臣關告、徑達九天。所祈所願、咸賜如言」
美鈴がスマホの画面を暗転させ、符を取り出すとボッと火が付き、油と錆の匂いをかき消すような芳醇な香りが立ち込める。
「シュッコーシンジョか、古風だな?」
「……ジュウ・シアン・シェン・ジョウ。です。美国人は大雑把すぎます」
くだらないやり取りの間にも光の桟橋は消え、ただ、泥濁りのコロンビア川だけが変わらぬ歩調で大海原を目指して流れている。
人が変わり、街がネオンに染まっても、この土地は彼女を覚えていたのだ。
『……Damn, who knew? All the planes we flew,Good things we been through.That I'd be standin' right here talkin' to you』
「シーユーアゲイン……か、手間が省けたな」
ベンがアロハの襟を直しながら、いつの間にかまとわりついていた三毛猫の毛を払う。
「ええ。道が還るべき場所へ還る風を見届けたのでしょう」
美鈴は布バッグの紐を整え、助手席へと乗り込んだ。
「で、これで今回の件は一件落着ってことでいいんだな?」
ベンがカーステレオのボリュームを下げ、夕日に染まるハイウェイへと車を合流させる。
「ええ。霊門としての機能は完全に消失しました。この間のビルの風水的な気の停滞にも影響があるはずです」
美鈴はダッシュボードの上で、先ほど切った領収書とICEの身分証を几帳面に並べ替えていた。
「そいつは週明けに経理に投げればいい。にしてもノスタルジーの対価にしちゃ、ずいぶんと安上がりだったな」
「彼女の大本は今も強い信仰を集めています。そちらに帰ったのでしょう」
「そうか」
ベンがアビエーターの奥のブラウンの瞳を細めて笑う。
「ACF(児童家庭局)じゃないが、親元に帰ったのなら俺達の仕事は終わりだ」
美鈴も明りが灯り始めた窓の外の退屈な街並みを見つめたまま、小さく口元を緩めた。




