6-2
オレゴンの柔らかな日差しが、低い建物の屋根や看板の縁を金色に縁取っていた。
ウェストブリッジ生まれのチェーン店「オーシャン・スパイシー・チリ」からは、甘くスパイシーなシンシナティチリの香りが漂い、ひんやりした午前の空気にゆるやかに溶け込んでいく。
鼻腔をくすぐるその匂いに誘われるように、市営バスが柔らかなサスペンションの揺れを刻みながらやって来た。
色あせた赤い提灯と、剥がれかけた龍の絵の看板がぶら下がる停留所の前で、静かにブレーキを踏む。
開いた扉から、湿った熱気と車内の古びた革の匂いが吐き出され、乗客がぱらぱらと降りてくる。
やがてエンジン音が遠ざかると、華僑街の停留所には小柄な少女がひとり残された。
可愛らしい私服に、肩から下げた布のバッグ。
財布をしまい直すとき、うっかり持ってきてしまったICE身分証に気づき、美鈴は小さく苦笑した。
顔を上げれば、提灯の影が朝の光にかすかに揺れ、油を温める音と、広東語と英語の混じった声が寂れながらも活気のあるメインストリートから漂ってきた。
二度目の訪問なのに、胸の奥にはなぜか帰郷に似た温かさが広がった。
「ヘイ、ちょっと見ていかないかい?」
「免啦」
街の入り口の、営業許可があるかも怪しい屋台のオヤジをそっけなく振り切り、美鈴はメインストリートを外れて、薄暗い裏路地へと足を踏み入れた。
頭上では、ビルの間に張られた洗濯紐から色とりどりの布が風に踊り、その端から滴る水滴が、あるいは漏れた配管のせいか、足元の水たまりを割れた鏡のようにきらめかせている。
湿った油の匂いと香辛料の香りが重なり、突然、大陸の台所に迷い込んだような感覚が肌にまとわりつく。
「……何か?」
そのとき、ふいに背筋を撫でるような気配を覚え、美鈴は顔を上げた。
裏路地のさらに奥、ビルの隙間からのぞく細い瞳孔。
黒猫がじっと彼女を見つめ、やがて小さく鳴いて振り返る。
「ついてこい。……でしょうか?」
独り言のように呟きながら、美鈴は小さな案内人の後を追った。
細く入り組んだビルの合間を抜け、建築許可があるのかも怪しい古い家屋の裏口をくぐる。
その先に、中庭にしては広すぎる空き地が開けていた。
「これは……」
広場の中心に歩み出た美鈴は、深呼吸しながら周囲を見渡した。
恐らく移民コミュニティの初期に建てられた廟だったのだろう。
忘れ去られたのか、あるいは新たに別の廟を建立したのか。
ともかく今はただ、雑居ビルに取り囲まれて日陰の中に埋もれている。
それでも奇跡のように光が差し込む一角があり、その中心には朽ちかけた木製の廟が佇んでいた。
「澄んでいる……。建物はともかく、土地そのものが。良い風水師が見立てたのでしょうね」
割れた石畳を踏みしめ、塗装の剥げた階段を昇る。
「媽祖。水運の街らしい選択です」
剥げかけた教文をそっと指でなぞりながら、外れかけた木製の扉を引き開けた。
「街の様子からすれば、信仰は移ったのでしょう。……関聖帝君あたりでしょうか?」
小さく呟き、視線をゆっくりと走らせた。
そのとき、暗がりの奥から、かすかな気配が動いた。
廟の中心へと集まり、じっと彼女に視線を注ぐ無数の猫たち。
「それで、どうしたいのですか?」
美鈴は中国語の普通語で問いかけ、静寂に言葉を投げかけた。
「神像は丁寧に移置されていますね。代わりに何かが巣くったというわけでもない」
美鈴は暗闇に光る眼に見守られながら、ゆっくりと奥へ踏み込んだ。
「霊門としては既に機能していないようです。方角はよく取れているのに、気の流れが断ち切られている」
古びた神像と祭壇の周辺を眺めながら唄うように呟く。
そのとき、ふっ、と壁際に気配が立った。
闇の奥で影が濃くなり、最初は誰のものとも知れない残像のように揺れる。
猫たちの瞳が一斉にそちらへ向き、広間に緊張が走った。
「あの……」
年齢も性別も判じがたい声が、しめった空気に溶けるように響いた。
美鈴は眉をわずかに寄せたが、振り返らずに応じる。
「あいにく、今日は非番です」
すると間を置かず、よりはっきりとした少女の声が重なった。
「道士様」
呼びかけに、場がきしむような静けさが降りた。
美鈴は小さくため息をつき、ようやく視線を背後に向けた。




