3-7
「彼女はCI(ConfidentialInformant)でな。俺もこうして先輩に紹介されたんだ」
「ええ、希望に満ちた、若く素晴らしい担当官様でしたわ」
ヴェラはビーリンと握手していた腕をそっと降ろし、ひと息置いてからベンへ向き直った。
自然な笑みは変わらない。だが、その瞳にふっと遠い光が揺れた。
それを見て、ベンは小さく肩を竦め、視線を逸らす。
「……先輩?」
メイジーが訝しむように声を潜める。
どこかこの場の空気に混乱しながらも、問いかけずにはいられない様子だった。
「DHS設立以来の古株さ。たしかNSAあがりだったか」
ベンはわずかに声を落とし、どこか話を切り上げるように淡々と言う。
その声の奥に、ほんの一瞬だけ懐かしむ響きが混じっていた。
「その方は……?」
メイジーがためらいがちに言葉を継ぐと、ヴェラは静かに目を伏せる。
「とても……良いお友達だったのですけれど残念ですわ、本当に」
淡い声が、川を渡る風にさらわれ、芝生の上の空気がひととき張りつめる。
「ああ、たっぷり退職金せしめて引退したよ」
ベンが肩をすくめながら応じる。
その声音には、どこか呆れたような、それでいて親しみを思い出すような色が混じっていた。
「確か、ブレントウッドのあたりに移住したはずだ」
メイジーは目を白黒させて二人を交互に見つめ、返す言葉を探している。
「便りがないのが……良い便り、ですわね」
ヴェラはふっと笑みを深め、遠い友を思うように言った。
「まあ、殺しても死ぬような爺さんじゃなかったが……勝手に殺すなよ」
ベンが苦笑を混じえながら言い添えると、ひときわ強い川風が吹き上がり、銀の髪を撫でて揺らした。
「コロンビアヒルズは……とても心地の良い場所ですの」
髪を押さえながら、ヴェラが穏やかに呟いた。
ビーリンも小さく頷く。治安や景色だけではない、霊的な素養を持つ者だけに伝わる何かが、この土地にはあるのかもしれない。
「今日も……何か、ご依頼が?」
「いや? 単なるオンボーディングだよ。むしろ何か情報を持ってないか?」
ベンは胸元のEROのテカテカする印字を指先で押さえながら、わずかに目を細める。
「まあ……お話するだけでしたら歓迎ですわ。お散歩のついでで、申し訳ございませんが」
ヴェラが柔らかな声で言うと、足元の半透明の犬がぴくりと耳を動かし、尻尾をひとつ振った。
メイジーはまだ警戒を隠せないまま犬を見やり、眉をひそめる。
だが犬は小さく鳴くと、まるで訓練された警察犬のようにすっとヴェラの手元を離れ、そのままメイジーめがけて一直線に駆け出した。
「ちょっ、ちょっと……!」
声を上げる間もなく、柔らかな芝生に押し倒される。
冷たい感触が頬をかすめ、次の瞬間、ぬるりとした舌が遠慮なく顔を舐め回した。
「ちょ、なにっ、これ……やめっ……!」
頬に、額に、鼻先に、くすぐったい冷たさが降り注ぐ。犬は満足げに尻尾を振り、ヴェラはくすくすと喉を鳴らした。
「何笑ってっ……るのよっ! 動物管理責任者重過失で逮捕するわよ!?」
「動物霊はオレゴン州法の管轄じゃないな。農務省の動植物検疫局を通ってるなら、天界法だ」
ベンが淡々と返し、半ば呆れた視線で芝生に寝転ぶメイジーを見下ろした。
「害意はありませんよ。じっとしていてください」
ビーリンが静かに告げ、大きく尻尾を振る犬の首を撫でた。
「ええ、捜査官様。……ですが珍しいですね、ソトラがこんなに懐くなんて」
ヴェラは小さく首を傾げ、そのまま川面へ視線を移す。
「そうですわ、ベン様。お耳を」
「珍しいな。ただ働きか?」
「お洋服のクリーニング代わりですわ」
楽しげに告げた後、ヴェラはふっと表情を変えた。
「最近新しくお仕えさせていただいているお屋敷なのですが……パーティーで使う秘密の『お砂糖』の納入が、遅れがちでして。そのうえ随分と値上がりしたとか」
「そいつはうちより、FRB(連邦準備制度理事会)やDEA(麻薬取締局)が喜びそうなネタだな」
「ふふ……このようなお話は、わたくしの雇用の安定に関わりますので。他言無用でお願いいたしますわ。それよりも……」
ヴェラが唇に白い人差し指を立てて悪戯っぽく微笑む。
ベンはサングラスの奥の目をわずかに細め、すぐに得心したように顎を引いた。
「DEAの大規模な摘発があったわけじゃない。なら、サプライチェーンかラボ側の問題だ。この辺ならMCか……。OK、協力に感謝する」
ベンが踵を返すと、犬をすっかり手懐けた様子のビーリンと芝生に崩れ落ちたまま顔をしかめるメイジーに歩み寄った。
「いつまで遊んでるんだ、帰るぞ」
乾いた川風が、頬に残った冷たさをそっと拭い去っていった。
「……社会人になって一番、転職したい気分なんですけど」
「DHSに別省庁への転属願いでも出したらどうだ?」
ベンは溜息をつくと、呆れたように片手を差し伸べてきた。
しぶしぶその手を取ると、メイジーはぐいと引き起こされ、スーツの裾にこびりついた芝を、ベンが無造作に払ってくれた。
そのすぐ脇では、ビーリンの短いハンドサインに応じて半透明の犬がぴたりとお座りし、次の合図で伏せへと移行する。
「……良い子です」
「なんであんたの言うことだけは聞くのよ……」
「動物霊は、本能で従う相手を選ぶので」
「……」
メイジーは納得の行かない顔で伏せた犬と無言でにらめっこを続けた。
透きとおった瞳が、どこか人を試すようにじっと見つめ返す。
やがて負けを認めるように、力なく肩を落とした。
「もうやだ、この組織……」
「歓迎の儀式だと思え。海軍士官学校みたいなもんだ」
「犬に舐め回される歓迎なんて、聞いたことないんですけど」
「うちの課は特別だ。動物愛護団体に自慢できるぞ」
ベンはため息を吐き、フィールドジャケットの裾を軽く払うと背を向ける。
歩き出す足取りは、どこかいつもより軽いようにも見えた。
「ビーリン、撤収するぞ。昼飯だ」
「はい」
ビーリンは静かに一礼し、犬を立たせる。
ひとつ口笛を吹き、指先で合図すると、犬は素直に元の飼い主へと戻っていった。
川辺にはひととき静寂が訪れる。
ヴェラは変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべ、風に銀の髪を揺らしていた。
「また、いつでもいらしてくださいませ」
「……二度とごめんよ」
メイジーはうんざりした声で答える。
けれど、その頬にはほんのわずかな苦笑が浮かんでいた。
「いいえ、すぐにお会いすると思いますわ」
わんっ、と犬が小さく吠えた。
その声がどこか楽しげに、川沿いの芝生に響いた。




