3-2
「謝謝」
アパートの前でバイクを止めると、ビーリンが軽やかな動作で後部シートから飛び降りた。
夜風にそよぐ黒髪が街灯の下で一瞬、光の細い鱗のようにきらめく。
まるで皮膜一枚で現実と切り離された、よくできた蜃気楼のようだった。
同性であるメイジーですら、思わず息を飲む現実離れした美しさだった。
「……まったく。じゃあ、おやすみなさい」
心のざわめきを振り払うように、メイジーは少し乱暴に言葉を投げると、バイクを再び走らせ契約駐車場へと向かった。
とにかく、今日一日で色々ありすぎた。
そもそも、数日前までの自分に「霊体を護送して」「異界と地続きの教会に踏み込んで」「霊能者を愛車で送る」なんて話をしたら、鼻で笑うどころか精神鑑定送りになっていたかもしれない。
それでも今の自分は、 思わず少し笑ってしまうほど驚くほど素直にその現実を受け入れている。
そんな思考を胸の奥に沈めながら、メイジーは静かにバイクを停めた。
頑丈な輪留めをかけ、ハンドルロックを確認する。
その手つきは、かすかに疲れを帯びていたが、どこか満たされてもいた。
ヘルメットを脱ぎ、汗で湿ったブロンドの髪をかき上げると、深く街の空気を吸い込んで夜空を見上げる。
暗い空には星ひとつなかったが、不思議と重さは感じなかった。
少しだけ軽くなった心に引かれるようにして、メイジーはオートロックのエントランスを開錠し、エレベーターに乗り込む。
「明日は定時に出勤して報告書を……って!」
エレベーターを降りて自室のカギを差し込んで扉を開いた瞬間、メイジーは絶句した。
入居して数日だが、慣れ親しんだはずの玄関の壁に、見覚えのない「福」の字が逆さに貼られている。
玄関とリビングの間には、アジア系の雑貨店でしか見たことのない玉すだれが下がっており、奥の方からは雑音交じりのMCが最近あった出来事を愉快そうに語っていた。
音量は控えめだが、そもそも、なぜそこにラジオがあるのかがわからない。
そして極めつけは……
「歡迎回來」
キッチンから長いおたまを持っていないほうの手を振るビーリンは、エプロン姿のまま、まるでこの部屋の主であるかのように穏やかな笑顔を浮かべていた。
メイジーは一拍、言葉を失ったままフリーズした。
目の前にあるのは現実のはずなのに、現実感がまるでない。
逆さの「福」、玉すだれ、買った覚えのないアンティークなラジオ。生活空間を侵食する異国の影。
そして何よりキッチンから立ちのぼる刺激的な香辛料の香り。
「……ちょっと待って、あなた、どうやって入って、いつの間に料理したの!?」
「昨夜のうちに式を仕掛けておきました。単純な命令なら十分です」
そう言って何でもないように料理を再開する少女の背後には白い人型の紙が浮いていた。
彼ら(?)は一堂に一日の激務に疲れたように少々くたびれていたが、今もせっせと食材を運んだり、テーブルをセッティングしているようだった。
「あっ、そう……便利なルンバね」
「ちなみに、今日の主菜は麻婆豆腐です。アメリカの物は甘いので、ちゃんと調整しました」
ビーリンがごく自然な動作で下茹でしていたトーフを鍋に開けると、一般的なコンロがまるで中華店の業務用コンロのような炎を立ち上らせた。
一心不乱に鍋を振るビーリンの裏で、紙製にみえる式とやらがまるで自分のキッチンかのようにスムーズに動いていく。
コンロの上で踊る鍋のリズムが、どこか心地よくすらあった。
”We could be so hot together,hot together…”
ラジオのMCが次のナンバーを流し始めると、ビーリンは器用にラジオのボリュームタブを捻った。
静かに流れていたラジオがとたんに存在感を増し、PointerSistersの古いナンバーにのせて陽気なホーンとビートがスピーカーから流れ出し、部屋の空気にふっと柔らかさが混じった。
メイジーは軽く額を抑えながら、明らかに体のサイズに合っていないのにもかかわらずハンドバッグとジャケットを受け取りに来た式に「ありがとう」とぎこちなく応じて預けてしまい、料理の香りとラジオの音と……異質な侵略者のようで、当たり前のように生活に馴染んでしまった少女の姿をぼんやりと眺めた。
「火、強すぎない?」
「必要です。油に香りを移すには十分な熱が要ります」
ビーリンは鍋を鋭く振り、カンカンとお玉を滑らせ金属音とともに花椒と唐辛子の香りを立ち上らせた。
炒め油の上に具材が加わり、ジュワッという音とともに香ばしい湯気が立つ。まるで儀式のように、彼女の所作には乱れがない。
「そうじゃなくて。変えたの、コンロ?」
「いえ、符術で補っています。」
「合法なの、それ……?」
しかし、文句を言う気力は残っていなかった。
現実味のない一日を終えた心身には、むしろこの異様な非現実のほうが『癒し』に思えた。
気づけばメイジーは、ソファに腰を下ろして靴を脱いでいた。
ビーリンの動きに合わせて、紙の式たちがテーブルを整えていく。
漢字の書かれたコースターが正確な角度で置かれ、明らかにウチに元からあったものではない白磁の茶碗にライスがよそわれていく。
「……? ベン?」
不意に官給品のスマホが震え、メッセージアプリが新着を受け取ったことを知らせた。
>今しがた台湾の担当官と連絡が取れて、俺に届いた文書の正体がわかった。
「それで?」
音声入力で返事をして送信すると、すぐに既読が付き、少しの沈黙の後に新しいメッセージが表示された。
>いい知らせと悪い知らせがある。
……メイジーは一瞬眉を上げ、口元をヒクつかせる。が、すぐに思い直したように今度は手打ちで文章を入力する。
>いいから、もったいぶらないで。要点だけ教えて、気が立ってるんです。
>だろうと思った。
「は?」
メイジーの額に目に見えて青筋が浮かぶ。
>まず悪い知らせ。
>CBPが確認した俺宛の書類だが、台湾からの正式文書だった。なんで発火したのかは向こうの言い分だと……まぁ、よくわからなかった。なんかオカルトなセキュリティがかかってたらしい
「なにそれ、どこが悪い知らせなのよ」
「三昧真火護函術」
「……なにそれ?」
湯気の立ち昇る大皿を抱えたビーリンが背後から画面を覗き込み、呟いて微笑んだ。
「手紙や書類を術者の指定した資格のないものが開封すると発火する護符を仕込む術です。
官公庁では一般的な手続きかと」
「……少なくともCBPの郵便担当官は知らなかったみたいね」
メイジーは呆れ混じりにため息をつきつつ、大皿を持つビーリンの後に続いてソファーから立ち上がり、改めてテーブルに腰を下ろす。
麻婆豆腐が湯気を立てながらテーブルの中央に置かれ、その周りには、細切りの青椒肉絲、ふんわりした卵のスープ、小鉢に盛られた搾菜と、まるでどこかのチャイニーズレストランでコースを注文したかのように完璧に整った中華の夕食が並べられていた。
「こんなに作る時間あった?」
「この子達が大半を行っていました。私は爆。つまり仕上げをしただけです」
「便利ね、マジで」
自分の体の何倍もあるレザージャケットを、数体がかりで一生懸命引きずってクローゼットへ運んでいく紙の式たちを眺めながら、メイジーは箸に手を付ける。
が、ビーリンが微笑みながら人差し指を上げて制した。
「なに?」
「電郵の確認を、きっと重要なことが書かれていますよ?」
その言葉に、メイジーに代わりお腹がグーと抗議の声を上げたが……メイジーはため息をついて再びスマホを取り出した。
「重要な要件なら先に言ってるでしょ」
「國語や英語では重要なことを先に伝えますが……頭家は日系ですから」
「そういうステレオタイプ。改めないとこの国じゃ公務員やっていけないわよ」
画面の新着アイコンをタップすると、メッセージアプリが先ほどの続きを表示した。
>で、いい知らせだが。
>曾美鈴女史と当面ルームシェアだ。
>燃えたのはそれ関係の書類だったらしい。
>さっきメールの添付されたPDFで新しく届いた。
>仲良くやってくれ :)
「クソ……!」
メイジーはスマホをソファーに投げ出し、イラつきをぶつけるように乱暴に箸を手に取った。
「合衆国法典第5編はどうなってるのよ、AFGE(アメリカ政府従業員連合)に訴えてやるわ」
「ステレオタイプが当たったようですね?」
ビーリンは首を傾けて言うと、自分の茶碗にご飯をよそい、何気ない動作で麻婆豆腐を載せた。
”We could dance this dance forever,forever
We could be so hot,hot together."
スピーカーからはラジオの軽やかな音楽が流れ続ける。
音楽と香辛料の香り、食卓に揃えられた器、浮遊する紙の式たち、正面に座る少女。
異常なはずなのに、奇妙なまでに落ち着いていく心。
まるで、ずっとこうなることが決まっていたかのように。
「いただきます」
「それ、日本の風習じゃなかった? まぁ、いいけど」
手を合わせて拝むようにつぶやいたビーリンに肩をすくめ、メイジーは口の中に麻婆豆腐を運ぶ。
ピリリとした辛味と旨味が舌を刺激し、身体の奥から力が戻ってくる気がした。
「……これ、マジで美味しいのが腹立つわ」
「ありがとうございます。医食同源、術医同源の根幹は道士の基本ですので」
「っていうか、初めから泊まる気だったわけ? 昨日も?」
ビーリンは何も答えず、静かに微笑んだだけだった。
いつの間にかカーテンレールに吊るされていた小さな風鈴が、どこからか入り込んだ夜風に揺れて、かすかに鳴る。
窓の外には、街灯の明かりに照らされた静かな夜の風景。
州間高速の走る地方都市の星ひとつないアメリカの何処にでもある空の下。
それでもこの部屋だけは、不思議と穏やかな、まるで異界から切り取られた聖域のようだった。




