2-10
SUVの運転席で、ベンは紙コップのふちからゆっくりと湯気の立ち昇るコーヒーを啜った。
舌先に広がる苦味と微かな酸味。正午の陽射しがフロントガラス越しに差し込み、車内に柔らかな熱を帯びさせる。
ベンは口元に残った熱気を手の甲で払うと、気だるげに小さく欠伸を漏らした。
「何喰ってるんだ?」
ルームミラー越しに視線を向けると、後部座席ではビーリンがオイスターペールの蓋を半ば外し、器用に箸を使って中身をつまんでいた。
隣では、先ほど捕縛された霊体の男が項垂れたまま、黙って後席の窓の外を睨んでいる。
「……んっ、炒飯と蔥爆豬肉です」
ビーリンは淡々と答えると、もう一口炒飯をかき込んだ。プラスチックの蓋には油分が白く曇り、パックの底には米とタマネギがくたびれたように沈んでいる。
「へぇ。この辺じゃマトモなチャイニーズも多いだろうに。……タンチョウ・エクスプレスか?」
「粤菜(広東料理)の気分ではなかったので」
素っ気ない返事だったが、その語調にはどこか小さな反発が混ざっていた。
『……台巴子らしいな』
霊が鼻で笑いながら、ビーリンのオイスターペールを覗き込んできた。
半透明の霊体となった今でも、態度は生前のままだ。下着姿のまま、彼はどこか軽蔑した視線を向ける。
『三軒隣の粵珍酒家に行ってみろ。二度とそんなもん食えなくなるぞ』
ビーリンは無言で割り箸を持ち上げ、虫でも払うような仕草で応じた。
空を切る箸先に霊の顔がかすめ、霊体であるにもかかわらずわずかに後ずさる。
「で、感想は?」
ベンの問いに、ビーリンは小さく肩をすくめてから炒飯をひと口かき込んだ。
「……酷いですね。炒飯には火力が足りていない。油もまわりきっていません」
眉をしかめたまま、もうひと口。顎を動かすたびに表情が険しくなっていく。
「それに、この『蔥爆豬肉』。なぜ甘いんですか?何を参考にしたらこうなるんでしょう」
「プロにわからんもんが、俺にわかるわけがない」
ベンがコーヒーを啜りながらつぶやいたその瞬間、助手席のドアがガチャリと音を立てて開いた。
「酢豚でしょう、それ。アメリカン中華ってそういうもんじゃない?」
メイジーだった。ファイルの入った黒いバインダーを抱えながら乗り込み、勢いよく助手席に座り込む。
「お前、昼は?」
「お構いなく」
「ダイエットか?」
「セクハラですよ」
きっぱりとした口調と、じっと睨みつける助手席からの視線に苦笑すると、ベンは降参したように小さく肩を竦めて、気まずそうにコーヒーを啜ると、手を伸ばしてエンジンスタートボタンを押し込んだ。
「この後はどうするんですか?」
「VIPを大使館に移送して、オフィスに戻る」
「……正面から入るんですか?」
「いや、護送の時は裏口に付ける決まりになってる」
「裏口?」
メイジーが眉を上げる。ベンはルームミラー越しに彼女の表情を確認しながら、アクセルを軽く踏み込んだ。
「クリーニングの搬入でしか使わない納屋にしちゃ豪勢だと思わなかったか? まぁ、表より豪華な大理石貼ってるのはどうかと思うが」
車が赤信号で止まると、ベンはダッシュボードのラジオに手を伸ばした。
一瞬の雑音のあと、スピーカーから〈JohnnyB.Goode〉のイントロが流れ出す。
鮮やかなギターリフと、歯切れの良いドラムが車内を満たす。
「リクエストだとしたら、ずいぶん渋いな。お前ら、これ知らないだろ?」
「マイケル・J・フォックスのバージョンなら何度も観ましたけど?」
と、後部座席のビーリンが炒飯をつついたまま、平然と返す。
「最近の子も『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は観るんだな」
そうつぶやいたベンの横で、メイジーは黙ったまま窓の外に目を向けている。
ギターのリズムに合わせて、足元で小さくリズムをとっていた。
霊体の男だけが、つまらなそうに鼻を鳴らしていた。




