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第4話 閉店前夜のナポリタン

 未完了係の三件目の案件は,喫茶店からだった.


 駅裏の古い喫茶店「灯台」が,今月末で閉店する.

 店主の森田譲は,閉店前に常連客へ最後のナポリタンを出す予定だったが,急な入院で厨房に立てなくなった.


 依頼者は,店主の娘だった.


 相談票には,こう書かれていた.


 父が「最後の日だけは店を開ける」と言っています.

 でも,医師から外出は止められています.

 常連さんたちに何も言わず閉めるのはつらいです.

 父のレシピで,最後のナポリタンを出せないでしょうか.


「飲食店営業許可,衛生管理,火気使用,アレルギー表示」


 榊係長は,必要な確認事項を淡々と読み上げた.


「感動的な話でも,手続きは必要です」


「係長,現実に戻すのが早いです」


 羽鳥が言うと,榊係長は眼鏡を上げた.


「仕事ですから」


 澪はその言葉に,少し笑ってしまった.


 喫茶「灯台」は,駅裏の細い道にあった.

 入口の赤い扉には,白いペンキで小さな灯台の絵が描かれている.店内には,革張りの椅子と丸いテーブル,壁には古い映画ポスターが並んでいた.


 店主の娘,森田夏帆は三十代半ばで,会社員らしい紺色のジャケットを着ていた.


「父は,この店を四十年やってきました」


 夏帆は厨房の奥から,古いノートを持ってきた.


「レシピはここにあるんです.私も昔,手伝っていたので,だいたいは覚えているんですけど」


 ノートには,材料名と分量らしき数字が並んでいた.


 玉ねぎ,ピーマン,赤ウインナー.

 ケチャップ,ソース,バター.

 砂糖,ひとつまみ.

 麺は少し固め.

 炒めすぎない.


 ページの下のほうには,別の筆跡のように小さく,こう書かれていた.


 左端の席.

 最後に,火を止めてから■■■■.


 肝心な最後の部分だけが,ケチャップの染みで読めなくなっていた.


「ここは,レシピの続きなんでしょうか」


 澪が尋ねると,夏帆は首を傾げた.


「分かりません.父に聞いても,『店に来れば分かる』って」


「店に来れば,ですか」


「はい.でも,父は入院中なので」


 羽鳥は厨房を見回した.


「まずは作ってみましょう.読めるところだけでも,かなり情報があります」


 その日の午後,未完了係は喫茶店の厨房に立った.

 羽鳥はなぜかエプロン姿が似合い,榊係長は食品衛生チェックリストを手に,冷蔵庫の温度を確認していた.


 澪は玉ねぎを切った.

 涙が出たのは,玉ねぎのせいだけではない気がした.


 試作一回目.

 味が薄い.


 二回目.

 甘すぎる.


 三回目.

 ケチャップの酸味が強すぎる.


 夏帆は一口食べるたびに,申し訳なさそうに首を傾げた.


「近いんです.でも,父の味はもっと普通で,もっと落ち着いているんです」


「普通で,落ち着いている」


 羽鳥が復唱した.


「褒め言葉としては難しいね」


「でも,常連さんはそれを食べに来ていたんです.特別じゃないのに,いつ来ても同じ味で」


 夏帆はノートを見つめた.


「私,店を継がなかったんです.会社に就職して,結婚して,店から離れて.父は何も言わなかったけど,たぶん寂しかったと思います」


 澪は何も言えなかった.


 夕方,病院に電話をかけた.

 森田譲は,弱った声ではあったが,店のことになると急に口調がはっきりした.


「市役所の人か」


「朝倉と申します.ナポリタンの件で,確認させていただきたく」


「夏帆は作ってるか」


「はい.何度か試作しています」


「味見したか」


「私もいただきました」


「どうだ」


 澪は少し迷った.


「おいしいです.でも,夏帆さんは,まだ違うとおっしゃっています」


 電話の向こうで,譲は短く笑った.


「あいつは昔から真面目すぎるんだよ.ナポリタンなんてな,うますぎても駄目なんだ」


「うますぎても,ですか」


「そうだ.うちのは,昼休みに食べて,午後も働ける味だ.ごちそうじゃない.毎週食べても疲れない味だ」


 澪はその言葉を,そのままメモした.


「譲さん,ノートに『左端の席,最後に,火を止めてから』と書いてあります.その先が読めません.これは,お店の味の決め手ですか」


 譲は黙った.


 沈黙が長かったので,電話が切れたのかと思った.

 けれど,やがて低い声が返ってきた.


「それは,客に出す分じゃない」


 澪は息を止めた.


「では,何でしょうか」


「カウンターの,一番左の席を見ろ.木箱がある」


 それだけ言って,電話は切れた.


 澪たちは客席へ向かった.

 カウンターの一番左の席には,小さな木箱が置かれていた.中には古いマッチ箱がいくつも入っていた.店の名前が印刷されたもの,旅先の喫茶店のもの,ホテルのもの.


 その底に,一枚の写真があった.


 若い譲と,妻らしき女性が厨房で笑っている.

 女性の前には,ナポリタンの皿がある.

 その上には,粉チーズが白くかかっていた.


 写真の裏には,短い字で書かれていた.


 左端の席.

 母さんの分だけ,火を止めてから粉チーズ多め.


 夏帆は,写真を見たまま動かなかった.


「母です」


 小さな声だった.


「母は,粉チーズが好きだったんです.でも父は,お客さんには粉チーズを出しませんでした.『うちのナポリタンはこのままが完成形だ』って,いつも言っていて」


 羽鳥が静かに言った.


「じゃあ,読めなかったところは,お客さんの味の秘密じゃなかったんだ」


 夏帆は頷いた.


「母の一皿だけの話だったんです」


 澪は,もう一度ノートを見た.

 たしかに,その一行は材料の並びから少し離れた場所に書かれていた.

 レシピというより,譲が自分のために残した覚え書きのようだった.


「では,常連さんに出す味は」


「父のレシピどおりです」


 夏帆は言った.


「私,ずっと最後の一行が分からないから,父の味にならないんだと思っていました.でも違いました.お客さんの味は,もうここに書いてあったんです」


 その夜,夏帆はもう一度ナポリタンを作った.

 ノートを見て,昔の記憶をたどりながら,焦らずに手を動かした.


 玉ねぎを炒める音.

 ケチャップの匂い.

 麺がフライパンの中で赤く染まっていく様子.


 出来上がった皿を,夏帆は黙って味見した.

 少しだけ目を閉じる.


「これです」


 今度は,迷いのない声だった.


「父の味です」


 澪も一口食べた.

 特別な味ではなかった.

 でも,その「特別ではなさ」を四十年同じように出し続けるには,きっと特別な仕事が必要なのだと思った.


 閉店の日,喫茶「灯台」は一日だけ開いた.


 厨房に立ったのは夏帆だった.澪と羽鳥は補助に入り,榊係長は客席で整理券とアレルギー確認を担当した.


 常連客たちは,次々にやってきた.

 元駅員,花屋の夫婦,高校時代から通っていたという女性,会社を辞めた日にここで泣いたという男性.


 みんな,ナポリタンを食べると少し黙った.

 そして,口々に言った.


「これだ」


「森田さんの味だ」


「最後に食べられてよかった」


 夏帆は厨房で何度も小さく頷いた.

 父の味を,自分の手で出している.

 それは店を継ぐこととは違う.

 けれど,最後の一日だけ,父の仕事を確かに引き継いでいた.


 閉店時間の少し前,夏帆は一皿だけ別に作った.


 常連客に出したものと同じ,父のナポリタン.

 けれど,火を止めてから,その一皿にだけ粉チーズを少し多めにかける.


 それを,カウンターの一番左の席に置いた.


「母の席なんです」


 夏帆は言った.


 誰も座っていない席に,白い粉チーズのかかったナポリタンが置かれている.

 常連客のための味とは,少しだけ違う.

 けれど譲にとっては,きっとこれも四十年続いた店の味だった.


 店を閉めたあと,夏帆は深く頭を下げた.


「父の仕事を,終わらせてくださってありがとうございました」


 澪は首を横に振った.


「終わらせたというより,受け取っただけです」


「受け取るのも,仕事なんですね」


 夏帆の言葉に,澪はすぐ答えられなかった.


 旧庁舎へ戻るころには,夜になっていた.

 手にはまだ,ケチャップとバターの匂いが残っている.


 仕事は,何かを作ることだけではない.

 作ったものを食べてもらうこと,覚えてもらうこと,そして次の誰かへ手渡すこと.


 澪は少しずつ,未完了係という場所が分かり始めていた.

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