第5話 未完了係の仕事
五月の連休明け,未完了係に一枚の相談票が届いた.
依頼者名は空欄.
依頼内容には,たった一行だけ書かれていた.
未完了係を,なくさないでください.
澪は何度も読み返した.
「これは,どういう意味でしょうか」
榊係長は,いつものように淡々としていた.
「そのままの意味でしょう」
「でも,誰が」
「差出人は分かりません」
羽鳥は投函箱を覗き込んだ.
「匿名の陳情かな」
「未完了係は,試験運用でしたよね」
澪が言うと,榊係長は頷いた.
「今年度上半期で評価されます.必要性が低いと判断されれば,廃止です」
「廃止」
その言葉は,思っていたより重かった.
配属された日には,よく分からない部署だと思った.
正直に言えば,早く別の課へ異動したいとも思っていた.
亡くなった人の約束を引き継ぐなんて,市役所の仕事なのだろうか.
どこまでやればよくて,どこから先は踏み込みすぎなのか.
澪には,今でも分からないことのほうが多い.
それでも,なくなってもかまわない,とは思えなかった.
「必要性が低いって,どうやって判断するんですか」
「件数,対応時間,費用,市民満足度,リスク管理,継続可能性」
榊係長が指を折る.
「つまり,数字ですね」
「行政ですから」
澪は机の上のファイルを見た.
保育園の時計.
春子の手紙.
喫茶店のナポリタン.
その後も未完了係への相談は続いた.
夫が亡くなる前に申し込んでいた講座を,取り消すべきか迷っているという妻.
施設へ入った母が途中まで編んでいた毛糸のマフラーを,誰に渡すつもりだったのか知りたいという娘.
退職した町内会長が残した防災倉庫の鍵の束を,どこへ返せばいいのか分からないという自治会役員.
亡くなった兄が毎月送っていた花の定期便を,止めるべきか続けるべきか悩んでいる妹.
空き家になった実家の郵便受けに,毎週同じ曜日だけ手紙が届くという相談もあった.
相談は,どれも大事件ではなかった.
新聞に載るような話でもない.
けれど,持ち込んだ人たちは,みな少し困った顔をしていた.
どこへ相談すればいいのか分からない.
家族だけで決めるには重い.
でも,弁護士に頼むほどのことではない.
役所の通常窓口では,「担当ではありません」と言われてしまう.
そういう小さな未完了が,投函箱には毎日のように入っていた.
澪は集計表を見ながら呟いた.
「報告書を作りましょう」
榊係長が顔を上げた.
「朝倉さんが?」
「はい」
「通常業務に加えて,かなり大変ですよ」
「仕事ですから」
言ってから,澪は自分で少し驚いた.
榊係長が,わずかに笑った気がした.
その日から,澪は報告書を書き始めた.
相談件数.
対応区分.
所要時間.
関係機関.
発生した費用.
対応できなかった案件と,その理由.
今後の課題.
数字で書けることは,できるだけ正確に書いた.
未完了係は,何でも引き受ける便利屋ではない.
遺産分割の揉め事には踏み込めない.
医療や介護の判断を代わりにすることもできない.
家族が望んでいないことを,故人の意思だけで進めることもできない.
できることより,できないことのほうが多い.
だからこそ,線引きを書いた.
誰の同意が必要か.
どの段階で専門機関へつなぐか.
感情的な支援と行政事務の境界を,どう守るか.
澪は,それらを一つひとつ言葉にしていった.
けれど,それだけでは足りなかった.
未完了係の仕事は,数字と線引きだけでは説明できない.
少なくとも,澪にはそう思えた.
数日後,三通の文章が届いた.
美智子からは,短い手紙だった.
主人が守れなかった約束を,守っていただきました.
あの時計は今,保育園で動いています.
入園式の日,新しく入ってきた子どもたちは,時計の前で写真を撮ったそうです.
主人の仕事は,あの日で終わったのではなく,誰かの新しい時間の中で続いているのだと思えました.
春子からは,便箋二枚の手紙だった.
水曜日の公園へは,もう行っていません.
でも,寂しさだけではありません.
終わり方を手伝ってもらえたからです.
人には,始める手伝いだけではなく,終える手伝いも必要なのだと思います.
夏帆からは,メールが届いた.
父は病室で,最後の営業日の写真を何度も見ています.
常連さんたちが食べてくれた皿と,母の席に置いた一皿を見て,「閉店できた」と言いました.
店を閉めることと,終われることは違うのだと知りました.
未完了係は,その違いを支えてくれる仕事だと思います.
澪はそれらを報告書の最後に添付した.
提出前夜,旧庁舎には澪と榊係長だけが残っていた.
羽鳥は「差し入れを買ってくる」と言ったまま,一時間戻っていない.
「朝倉さん」
榊係長が声をかけた.
「はい」
「なぜ,そこまでやるんですか」
澪はキーボードから手を離した.
「最初は,分かりませんでした」
窓の外には,新庁舎の明かりがいくつも灯っている.
誰かがまだ働いている.
どこかで,今日中に終わらせたい仕事が残っている.
「役所の仕事は,生きている人のためにあると思っていました」
「今は違いますか」
「今も,そう思います」
澪は答えた.
「でも,生きている人の中には,亡くなった人の約束を抱えて止まっている人がいます.事情があって最後までできなかった仕事を,ずっと抱えたままの人もいます.その人たちが明日に進むためなら,これは生きている人のための仕事です」
榊係長は何も言わなかった.
ただ,机の上の冷めたコーヒーを見つめていた.
しばらくして,ぽつりと言った.
「未完了係ができる前,似たような相談は,いろいろな窓口に少しずつ届いていました」
「そうなんですか」
「福祉課,市民課,地域振興課,消費生活センター.どこも,自分の担当部分だけは対応していました.でも,担当と担当の間に落ちるものがあった」
榊係長は,旧庁舎の薄暗い天井を見上げた.
「この係は,その隙間を見つけるための試験運用でもあります」
「隙間を,埋めるんですか」
「いいえ」
榊係長は首を横に振った.
「隙間があると知らせるんです.埋められるものは埋める.埋められないものは,せめて落ちた人の声を拾う」
澪は,報告書の表紙を見た.
未完了係試験運用報告書.
そこに書かれているのは,一か月分の数字だった.
けれど本当は,数字になる前の声の集まりなのだと思った.
翌週,未完了係の継続審査が行われた.
会議室には,部長,課長,財政担当,市長公室の職員が並んでいた.
澪は榊係長の隣で,報告書を握りしめていた.
質疑は厳しかった.
「対象範囲が曖昧ではないか」
「民間サービスとの線引きはどうするのか」
「宗教的,感情的支援と行政事務の境界は」
「職員の負担が大きすぎるのではないか」
澪は,答えられるところは答えた.
答えられないところは,正直に課題として認めた.
澪は言った.
「すべてを引き受けることはできません.むしろ,引き受けてはいけないものもあります.ただ,相談を受けた時点で,通常窓口につなぐべきもの,専門機関につなぐべきもの,家族で解決できるよう情報整理すべきもの,そして係として関わるべきものを分けることはできます」
財政担当の職員が,資料をめくった.
「つまり,この係の価値は,現場対応の件数だけでは測れないということですか」
「はい」
会議室が少し静かになった.
澪は続けた.
「未完了係は,誰かの代わりに何でも終わらせる部署ではありません.終われずに残ったものを見つけて,それがどこへ向かえばいいのかを一緒に考える部署です」
最後に,部長が言った.
「朝倉さん.あなたは,この係の仕事を一言で説明できますか」
澪は息を吸った.
時計の音が,頭の中で鳴った.
春の公園の風が吹いた.
喫茶店のナポリタンの湯気が立った.
そして,投函箱に入っていた無記名の相談票が浮かんだ.
未完了係を,なくさないでください.
「未完了係は,仕事の終わり方を支える部署です」
澪は言った.
「人は,すべての仕事を終えてから亡くなるわけではありません.病気や年齢,家族の事情で,途中で手を離さなければならないこともあります.その未完了が,遺された人の生活を止めてしまうことがあります」
澪は,報告書に添えた三通の文章を見た.
「私たちがしているのは,特別なことではありません.誰かの時間が止まっている場所を見つけて,必要なら専門機関へつなぎ,必要なら情報を整理し,必要なら一緒に現場へ行く.そうやって,止まっていたものが少しでも動くようにすることです」
部長は,しばらく何も言わなかった.
その沈黙が長くて,澪は自分の心臓の音ばかり聞いていた.
結果が出たのは,三日後だった.
未完了係は,半年間の延長が決まった.
旧庁舎の部屋でその知らせを聞いた羽鳥は,両手を上げた.
「延命成功」
「言い方」
榊係長が低く注意した.
「業務量が増えますね」
「そこは喜びましょうよ,係長」
羽鳥が笑う.
澪も少しだけ笑った.
そのとき,旧庁舎の廊下で,ことん,と音がした.
三人は同時に顔を上げた.
投函箱の音だった.
誰かが,新しい相談票を入れたのだ.
澪は廊下へ出て,木製の箱を開けた.
中には,一枚の紙が入っていた.
依頼内容,亡き父が作りかけていた本棚を完成させたい.
備考,部品はそろっているが,説明書がない.父は「春のうちに片づける」と言っていた.
澪は小さく息を吐いた.
春は終わりかけていた.
窓の外の桜はすっかり葉桜になり,旧庁舎の周りには若い緑が広がっている.
季節は,少しずつ先へ進んでいく.
けれど,誰かの時間は,ある日を境に止まってしまうことがある.
終わらなかった仕事がある.
手放せない約束がある.
その前で立ち止まっている人がいる.
澪はファイルを開き,新しい番号を書き込んだ.
「では,始めましょう」
止まっていた時間を,少しだけ先へ進めるために.




