表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未完了係の春  作者: くるみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/5

第3話 昼休みの代筆屋

 未完了係には,専用の受付窓口がない.


 その代わり,旧庁舎の廊下に木製の投函箱が置かれている.箱の正面には,榊係長の手書きで「未完了案件相談票」と貼ってあった.


 翌週の火曜日,澪が出勤すると,投函箱に封筒が一通入っていた.


 差出人は,市民病院の緩和ケア病棟の看護師だった.


 依頼内容は,亡くなった患者が書きかけていた手紙を,宛先の相手に届けてほしい,というものだった.


「手紙,ですか」


 澪は封筒の中身を確認した.

 便箋は三枚.

 一枚目と二枚目は文字で埋まっているが,三枚目の途中で文章が途切れている.


 宛名はない.

 ただ,最初の行にこう書かれていた.


 春子へ.


「名前だけでは届けようがありませんね」


 澪が言うと,榊係長は相談票の備考欄を指した.


「本人の希望で,個人情報は最低限です.ただし,ヒントがあります」


 備考欄には,こう書かれていた.


 毎週水曜十二時十五分,中央公園,ベンチ,卵サンド.


 羽鳥は目を輝かせた.


「いいね.暗号みたい」


「人の大事な手紙です」


「だから大事に解くんだよ」


 水曜日の昼,澪と羽鳥は中央公園へ向かった.


 公園には,近くの会社員や買い物帰りの人たちがちらほらいた.桜はほとんど散り,若い葉が枝の先で光っている.


 十二時十五分.

 池のそばのベンチに,一人の老婦人が座った.


 白い帽子をかぶり,膝の上に小さな紙袋を置いている.袋から,サンドイッチの包みが見えた.


 羽鳥が小声で言った.


「卵サンド」


 澪は深呼吸をして近づいた.


「あの,失礼いたします.市役所の未完了係の者です」


 老婦人はゆっくり顔を上げた.


「未完了係?」


「突然すみません.春子さんでいらっしゃいますか」


 老婦人の目が,かすかに揺れた.


「……どなたから聞いたの」


 澪は封筒を差し出した.


「ある方から,お手紙を預かっています」


 老婦人は,しばらく封筒を見つめていた.

 それから,震える手で受け取った.


「武さんね」


「武さん,という方ですか」


「ええ.病院にいたのね」


 春子は封筒を胸に当てた.

 読む前から,そこに書かれていることを知っているようだった.


「よろしければ,私たちはこれで」


 澪が言うと,春子は首を横に振った.


「待っていてくれる? 一人で読むのは,少し怖いから」


 澪たちは少し離れた場所に立った.


 春子は手紙を開き,ゆっくり読み始めた.

 風が吹き,便箋の端が揺れる.


 数分後,春子は顔を上げた.


「途中で終わっているわ」


「申し訳ありません.私たちは,そのままお届けすることしか」


「いいの.あの人らしいから」


 春子は笑った.


「いつも最後まで言わない人だったの」


 羽鳥が尋ねた.


「武さんとは,どういうご関係だったんですか」


「昼休み友達よ」


「昼休み友達」


「この公園でね,三十年くらい前から,水曜日だけ一緒にお昼を食べていたの.あの人は印刷所,私は向かいのビルの経理.同じ会社でも,親戚でも,恋人でもない.ただ,水曜日の昼だけ,ここで会う人」


 春子は紙袋から卵サンドを取り出した.


「でも,退職してからも続いたの.夫が亡くなってからも,武さんの奥さんが亡くなってからも.変でしょう」


「変ではないと思います」


 澪は答えた.


 春子は手紙の三枚目を見た.

 文章は,こう途切れていた.


 春子,もし君がまだ水曜日にあのベンチへ来ているなら,私は君に一つだけ頼みたいことが


 そこで終わっている.


「頼みたいこと,何だったんでしょう」


 澪が呟くと,春子はしばらく空を見上げた.


「分かるわ」


「分かるんですか」


「ええ.きっと,もう来なくていい,と言いたかったのよ」


 その声は,思ったより穏やかだった.


「私たちは約束したの.どちらかが来られなくなっても,もう片方は一か月だけ待つ.それで来なければ,おしまいにしましょうって」


「では」


「今日が,ちょうど一か月目」


 春子は卵サンドを半分に割った.

 片方を,自分の隣に置く.


「武さんはね,印刷所の人だったから,言葉にうるさかったの.でも,自分の気持ちはいつも印刷ミスみたいに隠す人だった」


 春子は手紙を丁寧に畳んだ.


「続きを代筆してもらえるかしら」


「私たちが,ですか」


「ええ.未完了係なのでしょう」


 澪は迷った.

 亡くなった人の言葉を,勝手に書くことはできない.


 すると榊係長の言葉を思い出した.

 可能な範囲で,引き継ぐ仕事.


「武さんの言葉を作ることはできません」


 澪は言った.


「でも,春子さんが受け取った言葉を,春子さんの言葉で書くお手伝いならできます」


 春子は嬉しそうに頷いた.


 その日,澪は公園のベンチで,春子の言葉を書き取った.


 武さんへ.

 あなたの頼みは,たぶん分かりました.

 私は来週から,水曜日にここへ来るのをやめます.

 でも,卵サンドを見るたびに,あなたが紙袋を開ける音を思い出すと思います.

 三十年分の昼休みを,ありがとうございました.

 あなたの仕事が,私の水曜日を明るくしてくれました.


 書き終えると,春子はそれを封筒に入れた.


「これは,どこへ出せばいいのかしら」


 澪は少し考えてから言った.


「未完了係でお預かりします」


 羽鳥がにやりと笑った.


「いいね.返信保管,一件」


 帰り道,澪は公園を振り返った.

 春子はまだベンチに座っていた.隣には,半分の卵サンドが置かれている.


 仕事という言葉は,職場の中だけにあるものだと思っていた.

 けれど,水曜日の昼に誰かの話を聞くことも,その人の一週間を支える仕事だったのかもしれない.


 役職も,給料も,契約書もない.

 それでも,三十年続いた仕事が,たしかにそこにあった.

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ