第3話 昼休みの代筆屋
未完了係には,専用の受付窓口がない.
その代わり,旧庁舎の廊下に木製の投函箱が置かれている.箱の正面には,榊係長の手書きで「未完了案件相談票」と貼ってあった.
翌週の火曜日,澪が出勤すると,投函箱に封筒が一通入っていた.
差出人は,市民病院の緩和ケア病棟の看護師だった.
依頼内容は,亡くなった患者が書きかけていた手紙を,宛先の相手に届けてほしい,というものだった.
「手紙,ですか」
澪は封筒の中身を確認した.
便箋は三枚.
一枚目と二枚目は文字で埋まっているが,三枚目の途中で文章が途切れている.
宛名はない.
ただ,最初の行にこう書かれていた.
春子へ.
「名前だけでは届けようがありませんね」
澪が言うと,榊係長は相談票の備考欄を指した.
「本人の希望で,個人情報は最低限です.ただし,ヒントがあります」
備考欄には,こう書かれていた.
毎週水曜十二時十五分,中央公園,ベンチ,卵サンド.
羽鳥は目を輝かせた.
「いいね.暗号みたい」
「人の大事な手紙です」
「だから大事に解くんだよ」
水曜日の昼,澪と羽鳥は中央公園へ向かった.
公園には,近くの会社員や買い物帰りの人たちがちらほらいた.桜はほとんど散り,若い葉が枝の先で光っている.
十二時十五分.
池のそばのベンチに,一人の老婦人が座った.
白い帽子をかぶり,膝の上に小さな紙袋を置いている.袋から,サンドイッチの包みが見えた.
羽鳥が小声で言った.
「卵サンド」
澪は深呼吸をして近づいた.
「あの,失礼いたします.市役所の未完了係の者です」
老婦人はゆっくり顔を上げた.
「未完了係?」
「突然すみません.春子さんでいらっしゃいますか」
老婦人の目が,かすかに揺れた.
「……どなたから聞いたの」
澪は封筒を差し出した.
「ある方から,お手紙を預かっています」
老婦人は,しばらく封筒を見つめていた.
それから,震える手で受け取った.
「武さんね」
「武さん,という方ですか」
「ええ.病院にいたのね」
春子は封筒を胸に当てた.
読む前から,そこに書かれていることを知っているようだった.
「よろしければ,私たちはこれで」
澪が言うと,春子は首を横に振った.
「待っていてくれる? 一人で読むのは,少し怖いから」
澪たちは少し離れた場所に立った.
春子は手紙を開き,ゆっくり読み始めた.
風が吹き,便箋の端が揺れる.
数分後,春子は顔を上げた.
「途中で終わっているわ」
「申し訳ありません.私たちは,そのままお届けすることしか」
「いいの.あの人らしいから」
春子は笑った.
「いつも最後まで言わない人だったの」
羽鳥が尋ねた.
「武さんとは,どういうご関係だったんですか」
「昼休み友達よ」
「昼休み友達」
「この公園でね,三十年くらい前から,水曜日だけ一緒にお昼を食べていたの.あの人は印刷所,私は向かいのビルの経理.同じ会社でも,親戚でも,恋人でもない.ただ,水曜日の昼だけ,ここで会う人」
春子は紙袋から卵サンドを取り出した.
「でも,退職してからも続いたの.夫が亡くなってからも,武さんの奥さんが亡くなってからも.変でしょう」
「変ではないと思います」
澪は答えた.
春子は手紙の三枚目を見た.
文章は,こう途切れていた.
春子,もし君がまだ水曜日にあのベンチへ来ているなら,私は君に一つだけ頼みたいことが
そこで終わっている.
「頼みたいこと,何だったんでしょう」
澪が呟くと,春子はしばらく空を見上げた.
「分かるわ」
「分かるんですか」
「ええ.きっと,もう来なくていい,と言いたかったのよ」
その声は,思ったより穏やかだった.
「私たちは約束したの.どちらかが来られなくなっても,もう片方は一か月だけ待つ.それで来なければ,おしまいにしましょうって」
「では」
「今日が,ちょうど一か月目」
春子は卵サンドを半分に割った.
片方を,自分の隣に置く.
「武さんはね,印刷所の人だったから,言葉にうるさかったの.でも,自分の気持ちはいつも印刷ミスみたいに隠す人だった」
春子は手紙を丁寧に畳んだ.
「続きを代筆してもらえるかしら」
「私たちが,ですか」
「ええ.未完了係なのでしょう」
澪は迷った.
亡くなった人の言葉を,勝手に書くことはできない.
すると榊係長の言葉を思い出した.
可能な範囲で,引き継ぐ仕事.
「武さんの言葉を作ることはできません」
澪は言った.
「でも,春子さんが受け取った言葉を,春子さんの言葉で書くお手伝いならできます」
春子は嬉しそうに頷いた.
その日,澪は公園のベンチで,春子の言葉を書き取った.
武さんへ.
あなたの頼みは,たぶん分かりました.
私は来週から,水曜日にここへ来るのをやめます.
でも,卵サンドを見るたびに,あなたが紙袋を開ける音を思い出すと思います.
三十年分の昼休みを,ありがとうございました.
あなたの仕事が,私の水曜日を明るくしてくれました.
書き終えると,春子はそれを封筒に入れた.
「これは,どこへ出せばいいのかしら」
澪は少し考えてから言った.
「未完了係でお預かりします」
羽鳥がにやりと笑った.
「いいね.返信保管,一件」
帰り道,澪は公園を振り返った.
春子はまだベンチに座っていた.隣には,半分の卵サンドが置かれている.
仕事という言葉は,職場の中だけにあるものだと思っていた.
けれど,水曜日の昼に誰かの話を聞くことも,その人の一週間を支える仕事だったのかもしれない.
役職も,給料も,契約書もない.
それでも,三十年続いた仕事が,たしかにそこにあった.




