第2話 時計屋の春
駅前商店街は,午前十時だというのに,少し眠そうだった.
シャッターの降りた店が三軒並び,その隣で八百屋の店主が段ボール箱を畳んでいる.古いアーケードの天井には,昨夜の雨がまだ乾ききらず,透明な雫がぽつぽつ残っていた.
西村時計店は,商店街のちょうど真ん中にあった.
看板の文字は色あせ,ショーウィンドウには腕時計がいくつも並んでいる.どれも新品というより,誰かの時間を預かっているような顔をしていた.
「ここです」
羽鳥が言った.
店の奥から出てきたのは,五十代くらいの女性だった.
「市役所の方ですか」
「未完了係の羽鳥です.こちらは朝倉です」
澪が名刺を差し出すと,女性は丁寧に受け取った.
「西村美智子です.主人の件で,わざわざすみません」
店の中には,時計の音が満ちていた.
秒針が進む音.振り子が揺れる音.小さな機械が,それぞれ勝手なリズムで生きている.
美智子は,壁に掛けられた大きな時計を指さした.
「これなんです」
木枠の古い壁掛け時計だった.文字盤の数字はところどころ剥げ,長針は七時を指したまま止まっている.
「これは,ご主人が修理する予定だったものですか」
澪が尋ねると,美智子は頷いた.
「はい.近くの保育園から預かった時計です.入園式までに直すって,主人が約束していたんです」
「入園式は」
「明後日です」
澪は思わず時計を見た.
止まったままの長針と短針は,何も答えない.
「新しく入ってくる子どもたちを,この時計の前で迎えるのが,その保育園の毎年の習慣なんだそうです」
美智子は,止まった時計を見上げた.
「主人は病院でも,この時計のことばかり気にしていました.『あれは春までに動かすって言ったんだ』って」
羽鳥が時計の裏蓋を開けた.中には小さな歯車が幾重にも重なっている.
「うーん」
「どうですか」
澪が聞くと,羽鳥は顔をしかめた.
「部品が一つ,完全に摩耗してる.同じ型の部品があれば交換できるけど,この時計,かなり古いですね」
「主人も探していました.でも,見つからなかったみたいで」
美智子は棚の引き出しから,小さな封筒を出した.中には,メモが入っていた.
古川金物店,倉庫,古時計の箱.
走り書きだった.
「これが最後のメモです.でも古川金物店は,もう閉店していて」
「場所は分かりますか」
澪が尋ねると,美智子は頷いた.
「商店街の裏通りです.ただ,店主さんが施設に入られて,今は息子さんが時々片付けに来るくらいで」
羽鳥は時計の裏蓋を閉じた.
「行ってみましょう」
「今からですか」
「仕事ですから」
その言い方があまりに自然で,澪は少し遅れて頷いた.
古川金物店は,アーケードを抜けた先の細い路地にあった.看板は外され,入口には「貸店舗」の紙が貼られている.
ちょうど中で作業をしている男性がいた.
古川の息子だというその人は,最初こそ怪訝そうだったが,事情を聞くと奥の倉庫へ案内してくれた.
「親父が集めたガラクタばかりですよ.持っていけるものがあるなら,むしろ助かります」
倉庫には,錆びた釘,古い蝶番,電球,工具箱,正体の分からない金具が山のように積まれていた.
澪はメモを握りしめながら,箱を一つずつ開けた.
埃が舞い,くしゃみが出た.
羽鳥は楽しそうに鼻歌を歌っている.
「こういう仕事,好きなんですか」
澪が尋ねると,羽鳥は工具箱を覗き込みながら答えた.
「好きというより,向いてるのかも.人が残したものを探すのって,考古学みたいでしょ」
「時計の部品探しが,ですか」
「うん.誰かの約束を発掘してる」
澪は手を止めた.
約束を発掘する.
そんな言い方は,考えたことがなかった.
奥の棚に,古いみかん箱があった.
側面に,黒いマジックで「時計」と書かれている.
「あ」
澪は箱を下ろした.中には壊れた置き時計や柱時計の部品が詰め込まれていた.
羽鳥が中身を一つずつ確認する.
そして,小さな歯車を摘まみ上げた.
「当たり」
その声を聞いた瞬間,澪は自分でも驚くほどほっとした.
店に戻ると,美智子は何度も頭を下げた.
「ありがとうございます.でも,修理は」
「やります」
羽鳥が即答した.
「できますか」
「たぶん」
「たぶんで返事しないでください」
澪が小声で言うと,羽鳥は笑った.
「朝倉さんも手伝って」
「私,時計なんて触ったことがありません」
「じゃあ,初めての仕事だね」
その夜,澪たちは西村時計店の作業台に向かった.
歯車を外し,部品を磨き,羽鳥の指示で小さなネジを渡した.
細かい作業に目は痛くなり,肩は固まり,何度も息を止めた.
それでも,時計は少しずつ形を取り戻していった.
午前零時を少し過ぎた頃,羽鳥が最後のネジを締めた.
時計を壁に掛ける.
振り子を揺らす.
一秒.
二秒.
三秒.
カチ,コチ,カチ,コチ.
止まっていた時間が,動き出した.
美智子は両手で口元を押さえた.
「主人の音です」
そう言って,静かに泣いた.
澪はその横で,動き始めた時計を見上げていた.
仕事が終わるとは,書類に判子を押すことだと思っていた.
でも,たぶんそれだけではない.
誰かが「お願いします」と言い,誰かが「分かりました」と答えた瞬間から,仕事はその人だけのものではなくなる.
西村清一という時計職人は,もういない.
けれど彼の仕事は,今,澪たちの手を通って,また音を立て始めていた.
入園式の朝,保育園の玄関には,あの時計が掛けられていた.
小さな靴を履いた子どもたちが,不安そうに母親の手を握りながら,時計の前で写真を撮っている.
その針は,春の朝を正しく指していた.




