第1話 辞令は,春の倉庫で
朝倉澪がその辞令を受け取ったのは,桜が散り始めた月曜日の朝だった.
「市民生活部,未完了係を命ずる」
人事課長は,何度読んでも意味が変わらない紙を,澪の前にすっと差し出した.
「未完了……係,ですか」
「そうだ」
「何をする係なんでしょうか」
課長は咳払いをした.
それから,少しだけ気まずそうに視線を逸らした.
「市民の,未完了な案件を扱う」
「それは,苦情対応のようなものでしょうか」
「まあ,広い意味ではそうだな」
広い意味.
役所でその言葉が出たときは,たいてい狭い意味では説明できない仕事が待っている.
澪はこの春,市役所に入ったばかりだった.配属先の希望には,子育て支援課,広報課,図書館運営室と書いた.理由は単純で,人の役に立つ実感が持てそうだったからだ.
それなのに,蓋を開けてみれば未完了係.
案内されたのは本庁舎の三階ではなく,渡り廊下の先にある旧庁舎だった.昭和の空気を閉じ込めたような建物で,窓枠は少し歪み,階段は踏むたびに小さく鳴った.
係の部屋は二階の一番奥にあった.
扉の札には,かすれた字でこう書かれている.
未完了係
ノックをすると,中から「どうぞ」と声がした.
部屋にいたのは二人だった.
一人は,銀縁眼鏡をかけた四十代くらいの男性.机の上には書類の山が積まれ,その頂上に冷めきったコーヒーが置かれている.
もう一人は,澪より少し年上に見える女性で,椅子の上に片膝を立てながら,古いラジオを分解していた.
「新人さん?」
女性が顔を上げた.
「朝倉澪です.本日付で配属になりました」
「おお,生きた若者だ」
「言い方」
眼鏡の男性が低く注意した.それから立ち上がり,名刺を差し出した.
「係長の榊です.こちらは羽鳥さん」
「未完了専門職の羽鳥です」
「正式な職名ではありません」
羽鳥は笑いながら,ラジオのネジを小皿に入れた.
澪はお辞儀をしてから,恐る恐る尋ねた.
「あの,未完了係というのは,具体的にどのような仕事をするのでしょうか」
榊係長は,澪に一冊のファイルを手渡した.
表紙には「未完了案件一覧」と書かれている.
開くと,最初のページにこうあった.
依頼者名,故・西村清一.
依頼内容,駅前時計店の壁掛け時計を,四月十日までに修理すること.
備考,本人死亡により未完了.遺族了承済み.
澪はページを見つめた.
「亡くなった方の……仕事ですか」
「正確には,亡くなった方や,事情があって最後まで果たせなくなった方の約束,作業,伝言などを,可能な範囲で引き継ぐ仕事です」
「そんな部署,聞いたことがありません」
「今年度からの試験運用です.市長案件です」
市長案件.
それもまた,役所で出ると少し面倒な言葉だった.
「でも,どうして市役所がそこまで」
澪が尋ねると,榊係長は窓の外を見た.旧庁舎の窓からは,新庁舎の白い壁と,その隙間に咲く桜が見えた.
「人が亡くなると,行政手続きはたくさんあります.戸籍,保険,税金,年金,相続.でも,その人が生きていた証は,書類だけでは整理できません」
榊係長は静かに続けた.
「誰かと交わした約束.職場に残した作業.言えなかった言葉.そういうものも,時には遺された人の生活を止めます」
澪はファイルに視線を落とした.
時計店の壁掛け時計.
それが,誰かの生活を止めるほど大事なものなのだろうか.
「最初の仕事です」
榊係長は言った.
「朝倉さんには,この時計の件を担当してもらいます」
澪は思わず顔を上げた.
「私が,ですか」
「もちろん一人ではありません.羽鳥さんが同行します」
「大丈夫,大丈夫.時計はたぶん直らないけど」
「最初から不安になることを言わないでください」
羽鳥は分解しかけのラジオを机に置き,澪に向かって片手を振った.
「未完了係へようこそ,朝倉さん.ここではね,仕事が終わらなかった人の代わりに,私たちが少しだけ続きをするの」
続きをする.
その言葉は,なぜか冗談に聞こえなかった.
澪はファイルを胸に抱えた.
市役所に入ったら,市民の生活を支える仕事がしたいと思っていた.
けれど,まさか最初に支えるのが,もうこの世にいない人の仕事だとは思わなかった.
窓の外で,春の風が桜を散らした.
花びらは,終わった季節の残り物のように,旧庁舎のガラスに一枚だけ貼りついた.




