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18/20

王太子に勝手に壊れていただきました

 社交シーズンに行われる、豪華絢爛な大夜会。

 だが、会場にはレクシアが流した「王太子の情緒不安定」という噂が霧のように漂い、華やかな音楽の裏側に奇妙な緊張感が張り付いていた。


「セシル様……あの方の輝きこそ、この国の希望だ」


 聖女セシルが王太子のエスコートで登場すると、会場の熱狂はピークに達した。

 彼女に盲信する王太子の姿と対照的に、ヴェノーラは一人、冷たい美貌を湛えて孤立している。彼女の「武装した美」は、セシルが放つ無垢な光属性の影に隠され、牙を抜かれた捕食者のように見えた。


「ヴェノーラ・レガリア! この女は禁忌の毒を用い、王家に仇なそうとした大罪人である!」


 王太子の叫びがホールに響き渡る。静まり返る観衆の中、セシルが悲しげに瞳を伏せ、祈るように胸元で手を組んだ。


「殿下、そんな……あるはずありません! この国の規範たる、公爵令嬢ヴェノーラ様のような気高き淑女が、そのような恐ろしいことをなさるなんて……きっと何かの間違いです。ねえ、皆様もそう思いますでしょ?」


 慈悲深く、あまりに無垢な擁護。だが、それがかえって王太子の独占欲と加虐心を焚き付ける。ミレイユの香りに煽られた王太子の理性が、修復不能な音を立てて軋んだ。


「優しいセシル……君は純粋すぎて、この女の腹黒さが分からないのだ。情けをかける必要はない。君のような『光』を害そうとする毒は、この国から一刻も早く排除せねばならないのだ!」


 王太子の瞳には、もはや正義ではなく、盲信という名の烈火が灯っていた。

 その熱に浮かされた醜態を、ヴェノーラは扇で口元を隠すことすら選ばず、ただ冷淡に、ひどく退屈そうに見下ろした。

 彼女の瞳にあるのは恐怖ではない。出来損ないの検体を見るような、底冷えする蔑みだ。


「……ええ。禁忌とされる薬物に手を出したことは認めますわ」


 鈴を転がすような、あまりに透明な全肯定。

 その瞬間、ホールを支配していた緊張の糸が、悲鳴を上げて弾け飛んだ。


「認めた……? 今、認めたのか!?」

「そんな、公爵令嬢ともあろうお方が……!」


 貴族たちの間に、波紋のような動揺が広がる。ある者は扇を落とし、ある者は震える手で十字を切った。

 レクシアが仕込んだ「王太子の情緒不安定」という疑念と、ヴェノーラの「自白」という事実が衝突し、会場全体の論理的思考がドルカの食事によって濁っていく。


「ははは! 聞いたか、セシル! 邪悪な魔女がついにその正体を現したのだ!」


 王太子は勝ち誇ったように、隣の聖女を抱き寄せた。

 その異様な高揚感に、観衆の多くが喉の奥で「何か、正しくない」という違和感を覚えながらも、溢れ出す熱狂の奔流に押し流されていく。


「ヴェノーラ様……どうして……! 私が、私がもっと早くあなたを導いてあげられていれば……!」


 セシルがその場に崩れ落ち、真珠のような涙を零す。その完璧な「悲劇の聖女」の図に、会場のボルテージは極限まで高められた。

 物語はモイラが予言した破滅のシナリオ通り、魔女の処刑へと一直線に突き進んでいく。

 この場にいる全員が、無意識のうちに「物語」という怪物に飲み込まれていた。悪が裁かれ、光が勝つ。

 その劇的な結末を渇望する集団心理が、会場を処刑場へと変容させていく。

 王太子が腰の剣を抜き放ち、その切っ先をヴェノーラの喉元へ突きつけた。


「王の名の元に! 貴様に永遠の眠りを与え――」


 王太子が最後の一言――断罪の宣告を放とうとした、その時。


「――発言をお許しください、殿下」


 低く、凛とした声がホールを圧した。一人の男が群衆を割って前へと進み出る。ケイン・アッシュフォードだ。


「……ケインか。今は断罪の最中だ。私情で口を挟むことは許さん」

「その公務の妥当性を、騎士の端くれとして、そしてかつての友として問うているのです。エドワード殿下。あなたは今、本当に国益のために剣を抜いておられますか?」


 その問いは、あまりにも真っ直ぐで、残酷だった。


「当然だ! この女は禁忌の毒を扱い、聖女セシルを害そうとした毒婦だぞ!」

「では、なぜ証拠の精査もなく、これほど性急に死を急がれるのです。あなたが守ろうとしているのは法ですか? それとも――ただの個人的な信仰ですか?」

「貴様……ッ!」


 王太子の顔が、屈辱と怒りで赤黒く染まる。


「光に目を焼かれ、足元の影も見えなくなりましたか。殿下、その光に依存し、思考を放棄した時点で、あなたはもう王ではない。ただの、感情の奴隷だ」


 決定打だった。


「黙れ、黙れ黙れッ!! セシル様だけが私を理解してくれるのだ! この女を殺せ! 処刑だ! 今すぐ私の目の前で!!」


 絶叫。それは正義の執行者の声ではない。愛執に狂い、理性をかなぐり捨てた、哀れな男の悲鳴だった。

 ケインは悲痛なまでの失望を瞳に宿し、深く、重い溜息を吐いた。


「……止めているのです。あなたを。これ以上、王家の名誉を汚さぬように」

「衛兵! ケイン・アッシュフォードを捕らえろ! 貴様も同罪だ!!」


 王太子の暴走は、もはや誰の目にも明らかだった。会場を支配する沈黙は、王太子という「旧弊な統治システム」そのものが再起動不能に陥ったことへの絶望だった。


(――ああ、いい表情ですわ。殿下)


 私は、喧騒の影からその光景を見つめていた。ヴェノーラは、処刑台を待つ罪人とは思えぬほど優雅に、自らの破滅という名のデモンストレーションを眺めている。

 盤面は整った。

 旧時代の権威が、自らその喉を切り裂いた今。この「不良債権」を買い叩き、新たな「仕様」を書き込む主役が、ステージに上がる時間が来たのだ。


「お待ちくださいませ」


 私は、ドレスの裾を揺らしながら、静かに、だが確実な足取りで、光の当たらない特等席から歩み出た。



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