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Hermit【改稿版】  作者: ひろたひかる
番外小話
85/106

甘いバレンタイン

「ごめんね、急に寄って」


 夏世が申し訳なさそうに言った。

 ここは優の家のリビング。総一郎は仕事で出かけていて、この日特に用のなかった優は家にいた。

 そこへ、外出先でちょっと具合の悪くなった夏世が助けを求めてきたのだ。どうやらたまたま優の家の近くにいたらしい。


「大丈夫? 夏世さん、無理しちゃだめだよ」


 優が冷たい水の入ったグラスを手渡し、それから夏世のおなかに目をやった。夏世はもう妊娠9月目に入ろうとしていて、おなかは相当に目立っている。夏世が元々スレンダーだからなおさら。


「うん、気をつける……」


 水を飲むと、辛そうに一息ついて、夏世はソファで横にならせてもらった。外は真冬の2月、家の中は暖房が効いていてもやはり冷える。優が温かい毛布を持ってきてそっと夏世にかける。


「少し休めば楽になると思うんだ。悪いけど少し寝かせてね。落ち着いたらタクシー呼んで帰るから」

「気にしないで。むしろうちに来てくれてよかった。心配だもん――いいから寝ててね。私、キッチンにいるから、なにかあったら呼んで」

「ありがと……ごめんね」


 そういって目をつぶった夏世は、引きずり込まれるように眠ってしまった。




 目が覚めると、甘い匂いが部屋中に充満していた。

 体調はすっかり回復していて、そっと起き上がってみてもふらついたりはしない。夏世は毛布を畳むと、甘い匂いの方へ向かった。


 甘い匂いは、もちろんキッチンから漂ってきている。キッチンを覗くと、優がなにやら作っている後ろ姿が目に入った。


「いい匂い。優、何作ってるの?」

「あ、目が覚めた? 具合はどう、夏世さん」


 声をかけると優が手を止めて振り返った。夏世はそれを「もう大丈夫」と笑顔で手を振ると、優もほっとした表情で笑った。


「蘇芳さんが、帰りに車で迎えに来るからここで待っててって」

「え? 連絡してくれたんだ、ありがとう!」


 どうやら夏世が眠っている間に蘇芳へ連絡を取ってくれたらしい。テレポートで運べば一瞬だけど、臨月間近の妊婦をテレポートで運ぶのはさすがに怖いから、と優は苦笑する。

 おそらく蘇芳が「迎えに行くからそこまで優ちゃんの家で待たせてて」と頼んだのではなく、優の方から「蘇芳さんが帰ってくるまで家にいてもらうから」と言ったのだろう。

 そんな気遣いへのお礼も含めてそう言って、夏世は優の横に行って作業を覗き込んだ。


「チョコレート?」

「うん、もうすぐバレンタインでしょ? ちょっと張り切って練習してたの」

「――うん。張り切ってるの、よくわかる」


 なにしろ、いろいろなお菓子が作ってあるのだ。

 チョコクッキー、シフォンケーキ、エクレア、チョコタルト、フルーツのチョコがけ、エトセトラ。


「だって――バレンタインに本命チョコ渡すの、初めてだもん」


 優はそう言って頬を染めた。

 そう、優と一平は出会って1年半経つが、去年のバレンタインは諸般の事情(優が行方不明だった)で渡せなかった。

 だから、今年は初めてのバレンタイン。そりゃあ気合いも入るというものだ。

 一平の好みを悩んであれこれ作っていたのだろう。多分どれを渡したって一平は舞い上がって喜ぶだろうに、恋する乙女の必死さは何と甘美なことか。

 夏世は思わず優の頭をぎゅっと抱きしめた。


「うう、初い奴じゃ! こんな可愛い子、一平なんかにあげるの勿体ないわ」

「え、え?」


 あせってじたばたする優をぎゅっと抱きしめた。夏世は大好きで、まるで自分の弟と妹のような二人がいつも笑っていられることを祈ってやまない。二人がそれぞれ辛い過去を乗り越えてきたことを知っている。だからこそ今二人が笑い合っていることがどれだけ幸せなことなのかも理解しているつもりだ。

 二人が結ばれて幸せになるように、夏世は全力で応援を惜しまない。

 じたばたしながら優が夏世に問いかけた。


「ね、ねえ夏世さん、夏世さんはバレンタインどうするの?」

「う」


 夏世は軽く固まってしまった。

 本心を言えば、優みたいに手作りのチョコとかを渡してみたい。料理やお菓子作りだって嫌いじゃない。


 けれど、夏世の致命的な弱点がそれを赦さなかった。壊滅的な料理の腕がそれだ。


 過去にも、優が「これなら失敗知らず」と教えてくれたポトフを作ろうとして、キッチンがカオスと化したことがあり、それ以来古川家では夏世はコーヒーを淹れる以外の用途でキッチンを使ってはいけないことにされてしまったのだ。まあ、日本でも有数の資産家の家、それにお手伝いさんもいるわけだから、夏世が料理をしなくても(させてもらえなくても)支障はないのだが。


「――しょうがないからチョコは買ってこようかと。作ろうとすると京子さんに怒られるし」


 は~、と大きくため息をつくと、ポトフ事件の一番の被害者である優は苦笑いだ。


「夏世さん、手作りチョコ渡したい?」

「え? うん、そりゃまあねえ」

「ね、ひとつアイデアがあるんだけど」





 バレンタインデー当日。

 一平は優とデートだとうきうき出かけていった。今日は遅くなるんだろう。

 京子さんに断ってから夏世は台所で二人分の飲み物を用意して、リビングに戻ってきた。蘇芳はリビングでゆったりとソファに座ってテレビを見ている。


「紀行番組?」

「うん。これ、結構好きなんだよね」


 画面はスイスの山間の街を映している。独特の建築が冠雪した山に映えて美しい。雪の残る山々、道端に咲く花。ひととき日常を忘れられそうなゆったりとした映像に蘇芳は見入っている。


「ふふ、見るからに寒そうだね。はいこれ」


 夏世は蘇芳の横にぴったりくっついて座りながら、持ってきたマグカップを手渡した。


「熱いから気をつけてね」

「あ、ありがとう」


 そう言いながら盛大に湯気の立っているカップから蘇芳は一口飲んで――


「あれ? これ、ココア?」

「ふふ、ホットチョコレートだよ。バレンタインデーだからね」


 ホットミルクにチョコレートを溶かすだけのそれは、あの後こっそり優が教えてくれた。カップにミルクを注いでレンジでチンして、細かく砕いたチョコを入れて溶かすだけ。さすがにミルクを温めるだけでレンジを爆発させるようなスキルは夏世も持ち合わせていなかったようだ。


「ありがとう、美味しいよ」


 そう言って軽く触れる唇は、いつもよりも何倍も甘く感じる。

 蘇芳と夏世のバレンタインデーの夜はそうやって更けていった。




 *********


おまけ。





「はい一平さん、これバレンタインのプレゼント」


 待ち合わせた夕暮れの街角。広場のベンチに並んで座り、そう言って優が手渡した箱は、ピンクと茶色の細いリボンが綺麗に結ばれている小ぶりの白い箱だ。

 去年の今頃記憶喪失で行方不明していた優は、相当気合いを入れてバレンタインの準備をしてきたようだ。ちょっと恥ずかしそうに上目遣いで渡してくる様子が初々しい。

 受け取る一平はうれしさを隠せそうにない。満面の笑みで優の手ごと受け取った。


「めっちゃうれしい。ありがとな。開けていい?」

「うん」


 綺麗にライトアップされた街並みを背景に、一平が細いリボンをするするとほどく。蓋を開けると、白い箱の中には小さなエクレアが数本入っていた。


「美味そう」


 言うなり一つをつまんでぱくり、と口に入れる。途端に目を見開いた。


「すんげえ美味い! ありがとな。優も一つ食べる?」

「え、いいよ、一平さんが食べて」

「いいから、ほら」


 一平がエクレアをひとつつまんで優の口に近づける。


「はい、あーん」


 とたんに優の顔が真っ赤に染まる。

 それから、うつむき加減にきょろきょろと辺りを見回して、恐る恐るといった風情で小さく口を開けてエクレアに齧り付いた。


 照れながらもぐもぐと口を動かしていると、一平がにこにことそれを眺めている。それから。


「優。口の横にクリームがついてる」

「え?」


 すっと一平の手が優の顎を押さえた。

 問い返す前に一平の顔が近づいてきて、口の端についたカスタードをぺろりと舐め取る。突然の行動に優は飛び上がった。


「ひゃあ!」

「うん、美味い」


 にやりと笑う一平の顔がちょっとだけ黒いように見えてしまう。

 時々こうやって意地悪するようになってきたけれど、正直嫌ではない。ただ、時と場所をよく考えていただきたいと思うのだが。ものすごく思うのだが。


「も、も、も、もう! 一平さんのえっち!」

「しょーがねえじゃん。可愛いんだもん」


 全く悪びれない様子のままキュッと抱きしめられて、優は小さく「もぉ……」とつぶやくことしか出来なかった。


 優と一平のバレンタインの夜は、そうやって更けていった。


なお夏世のポトフ事件は本編内エピソード「料理は愛情?」をお読みください。

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