空手の試合の日
とある武道場。
9月になってもまだまだ酷暑が続くこの日、武道場の中は冷房中でも熱気でムンムンしている。そして、汗臭い。
けれども中にいる人たちは、それ以上にぎんぎんした熱気をまとっている。
この日、ここでは空手の道場対抗試合をやっていた。小さな子供から年配者まで、みんなお揃いの白の空手着に身を包んでいる。空手着は同じでも、帯の色は様々だ。級や段によって色分けされているからだ。
空手では初心者は無級、そこから12級、11級と階級が実力に応じて上がっていき、1級の次は初段、2段……となる。今日の試合には段位を持っている黒帯の猛者たちだけでなく、9級のオレンジ帯や8級の青帯の子供も結構いて、緊張している空気が漂っていた。
そんな選手たちの控え室で、後輩の高校生に持たせたミット相手に蹴りの練習をしているのは一平だ。トーナメント方式の試合で順当に勝ち進み、あと二試合ほどを残している。
一平の練習を後ろから見ていた同じ道場の後輩たちが、こそこそっと話をしていた。
「なあ、麻生先輩、今日はすんごい気合い入ってないか?」
「ほら、しばらく道場来てなかったから自信ない、とか言ってたぜ。それでじゃないか」
「先輩くらいの人でもそうなんだなあ」
しばらく道場に来られなかったのは怪我と優を探すためだったのだが、上層部にしかその理由を伝えていないため後輩達は何があったのか知らない。さすがに「銃で撃たれて骨折して入院」とかセンセーショナルすぎて話せなかったのだ。説明もできないし。
一平は空手の腕前はもちろん、持ち前のさっぱりした性格と面倒見の良さで後輩たちからの人望が厚い。そんな風に心配されているとは露知らず、一平自身は「やっぱちょっと調子上がらないよなあ」と自身に喝を入れているところだ。
「麻生先輩、時間です」
後輩の辻が声をかけた。今は小学生以下の試合の時間で、もうすぐ後輩の小学生が試合をする番なのだ。どうやらそろそろ試合時間らしい。一平はミットを打つ足を止めた。応援することも大事な先輩としての務めなのだ。
「わかった。おい、みんな行くぞ」
その場にいた数人で、階下にある試合場へ向かった。
その途中、階段でよその道場生とすれ違った。
「柴岡道場の麻生一平って言うのは、あんたか?」
突然そのなかの一人が呼び止めた。一際ガタイもよく、周りの人間よりも頭ひとつぶん背の高い濃い顔の男は、ひと目見たら忘れない顔だろう。一平には記憶にない顔だから、おそらく初対面なのだろうが、妙に偉そうな口ぶりだ。
「そうですが、あなたは?」
すると、相手の男は無遠慮にじろじろ一平を見た。
「さっきあんたの試合見たよ。なかなかやるじゃねえか」
「そいつはどうも」
ちょっとばかり上から目線のしゃべり口調に、一平の後輩たちはムッとしたが、当の一平は動じていない。相手の男はふんぞり返ってニヤニヤしている。
「でも、次の試合はそうはいかないぞ。何しろ、この俺様が相手だからなあ」
がはははっと豪快に笑う声は、一昔前のスポ根アニメに出てくる三枚目の番長みたいだ。
確かにこの男は全身がみっちりと筋肉筋肉していて、ター●ネーターか超人●ルクかとつっこみたくなる。
「次の対戦相手の、川口道場の村井修吾ですよ。強いは強いらしいですが、相当な自信ですねえ」
後輩の一人・山田亮輔が一平に耳打ちする。
一平はしらっとしているが、後輩たちは村井の態度に相当腹を立てているようだ。一歩踏み出そうとするのを一平が押さえた。
「そうか。ま、よろしく頼むよ」
とあっさりとあしらって、後輩たちを連れてすたすたと階段を降りていってしまった。
「麻生先輩、なんであんなのに言わせっぱなしにするんですか!」
「そうですよ! あの筋肉ダルマ、先輩をバカにするなんて許せないっす!」
後輩たちはいきりたっている。
「いや、俺、今日は調子が悪いの本当だし、そもそも試合以外でやりあうのはダメだろ?」
後輩たちをなだめるための方便ではなく、一平は真剣にそう思っている。やはり、練習不足はすぐ露呈する。継続は力なりって本当だなあと反省しきりだ。
「やっぱりすげえよなあ、麻生先輩。あの挑発にも動じないよ」
「空手は強いけど、穏やかな人だから」
「いやいや、顔に出してないだけで、きっとむかついてるだろ」
「きっと次の試合で瞬殺だぜ、あの村井っての」
たどり着いたフロアでは、一平たちの後輩に当たる小学生の道場生が試合の順番を待っているところだった。今回は3人小学生の部で出るが、3人ともガチガチに緊張している。
「いいか、怖い気持ちはあると思うが、それに負けるな。攻めていけよ」
「押忍!」
ガチガチな小学生達が必死に腹の底から返事をする。3人とも初めての試合な上に相手は格上の級持ちだ、それだけで圧倒されてしまうかもしれない。勝っても負けてもいい経験になると思いつつもさすがに口には出さない。
そして1人目が呼ばれる。
「よし! 行ってこい!」
一平は肩を叩いて送り出した。
結果、善戦むなしく3人とも全員が負けてしまった。悔し涙を流す子供たちの頭をなでて、「また一緒に練習して、次は勝とうぜ」と励まし、選手の保護者に挨拶して別れを告げた。子供達はこのあと保護者とまっすぐ帰っても、一平達の試合を観戦しても自由なのだ。
すぐに小学生の部も次の試合が始まる。試合場はせまいので、応援する相手がいないときは極力退室するのがマナーだ。一平達も試合場を後にして、元いた控え室に向かって階段を上がり始めた。
そのとき、一平のスマホが鳴った。
「お」
届いたメッセージを手早く読んだ一平の顔がちょっとだけ緩む。
『今着いたよ! お弁当持ってきました。正面玄関で待ってるね』
メールの主には、午後から来てくれればいいと伝えてあった。そうしたら、ランチタイムにお弁当を持ってきてくれる、というので、一平は楽しみにしていたのだ。
「悪い、俺、弁当持ってきてもらったの取ってくる」
一平はそういうと正面玄関に向かって歩いていった。後輩の山田もトイレに行くから、と一平と一緒について行った。
正面玄関のそばまで来ると、なにやら騒がしい声が聞こえてきて、一平と山田は足を止めた。
「困ります!」
「恥ずかしがるこたぁないだろう? あんた可愛いから気に入ったんだよ。次の試合で勝ったらでいいからさ、俺様とデートしよう」
見ると、さっきの筋肉ダルマが女の子に絡んでいる。
「うわ最悪」
山田がそれを見て素直な感想を言った。女の子は高校生くらい、村井が彼女の顔の横あたりの壁に手をついているので、逃げ出すこともできなさそうだ。
所謂「壁ドン」というやつだが、女の子は心底嫌そうな顔をしている。
「麻生先輩、あの子助けた方が――」
そういって一平を振り返った山田は、そのまま固まってしまった。
☆☆☆
「どう? 一緒に昼飯でも。ここの向かいのラーメン屋、美味いんだよ」
「ですから、私、人を待ってるんです!!」
この、何をいっても華麗にスルーする男は、脳みそまで筋肉でできているんだろうか。さもなきゃ、脳みそ自体が海綿か何かでできているんじゃないだろうか。暑苦しいことこの上ない。
さっきから絡まれて困っていた優は、イライラが限界に近くなっている。
一平の試合を見に行く約束をして、お弁当を作ってきた。午前にも試合はあるけれど、1日中じゃ大変だから午後からでいいと言われて、ものすごく手の込んだお弁当にした。がんばった。武道場について一平にメッセージを送り、正面玄関で待ち合わせをしたのだが、待っているほんのわずかな間にこの暑苦しい男が絡んできたのだ。
いくら断っても埒が明かないので、そろそろPKで足払いでもかけてやろうかと思い詰めた頃、向こうから手が伸びてきて村井の肩をぽん、と叩いた。そのまま村井はぐいっと後ろに引っ張られる。
「一平さん!」
優がほっとして待ち合わせ相手の名前を呼んだ。
☆☆☆
肩にぽん、と手が置かれた瞬間、なぜか村井はざあっと血の気が引くのを感じた。
まるで猛獣ににらまれたような圧力、「その子に近づくんじゃねえ」という無言の目力、肩を押さえた手の握力。人はこれを殺気と呼ぶ。
「一平さん!」
優が一平の名前を呼んだ瞬間、村井の背後から暗黒のオーラがふっと消えた。
ただし、未だ村井の肩に置かれたままの手は、ぎりぎりと握力を増していく。それとは真逆の優しげな声が手の主から聞こえた。
「優、ごめんな、待った?」
「ううん。ほら、お弁当持ってきたよ」
「サンキュ」
優が一平のところへ歩きよったと同時に村井の肩が解放された。
にこやかにその場に背を向けた二人に対して、件の筋肉ダルマと山田は、一平のダークオーラに当てられて金縛りにあっている。
「おい、亮輔、行くぞ」
金縛りのまま動けなくなっている山田を一平が呼んだ。山田はなんとか金縛りが溶けて二人の後を追った。ふと山田が振り返ると、村井は顔面蒼白でまだその場に立ち尽くしていた。
「なにか見ちゃいけないものを見たみたいなんですよ――ええ、触れてはいけない暗黒のエネルギーっていうか、近寄ったら塵にされちゃうんじゃないかみたいな」
山田は後にその恐怖を語ったという。
午後の試合、準決勝は一平が村井を丁寧に時間をかけてボコボコに叩きのめして終わった。倒れない程度の力で当てられる突きや蹴りは村井を一方的に追い詰め、制限時間ギリギリのところで芸術的かつ破壊的な蹴りを鳩尾に決めて、残り3秒で一本勝ちを決めてしまったのだ。
村井はおそらく全身痣だらけだろう。
その後、一平は惜しくも決勝戦では負けてしまったが、優と二人並んで帰る表情はなんだかにこやかだった。
「一平さん、準優勝なんてすごいね」
「最後は負けちまったけどなあ。かっこ悪いとこ見せちゃったな」
「そんなことないよ、メチャクチャかっこよくてドキドキしちゃった。その……素敵だったよ」
一平が照れ隠しのように優の頭をくしゃくしゃっと撫でると、優は恥ずかしそうに目を細めて一平の肩にコツンと頭をぶつけた。
まだまだ日中の暑さが残る夕暮れ時、汗ばんだ肌に風が心地良い。そうやって空手の試合の日は終わっていく。
橙色の夕日の中、アスファルトに長く伸びた影だけが二人を追いかけていた。




