悪夢と三日月
今回、女性に対する暴力を想起させる表現がございます。回想の中だけではありますが、苦手な方はこの話は飛ばしてください。
リノリウム張りの床に仰向けに倒された自分の真上には筋肉質の大柄な男。獣のような獰猛さでにやりと優を見下ろしている。両手を頭の上に組んだ状態で押さえつけられ、上からのしかかられて身動きが取れない。どれだけもがいても逃げ出すことができず、恐怖と嫌悪感で肌が粟立った。
男が優の服に手をかける。
「いやあっ!」
自分の叫び声で飛び起きた。
真夜中なのかあたりは真っ暗で、カーテンの隙間からは薄く月の光だけが漏れてくる。
優は今の光景が夢だったことにほっとした。普段は少しだけ怖い暗がりも静寂も、この時だけはありがたい。まだ肌寒い部屋の空気に少しだけ頭が冷える。
今のは夢であって夢じゃない。実際にあったことなんだから。
もう1年以上前の話なのに、あの時の恐怖は心の底に澱んでいて、ふとした瞬間に浮かび上がってくる。実際は服を裂かれた直後に助けられたので未遂に終わったわけだが、それでもこうやって優がうなされて飛び起きるのも、実は1度や2度じゃない。
あの後も、いろいろあった。結局組織は壊滅したものの、そのときのショックで優は記憶を失って何ヶ月も行方をくらますことになってしまった。
それを見つけ出してくれたのは、一平。
優の、誰よりも大好きな人。
今は、事件より前と同じように父親の総一郎と自宅に住んでいる。古川の家には時折遊びに行かせてもらうくらいだ。
だから、一平とは普通の恋人同士のように電話やメッセージアプリで連絡したり、待ち合わせてデートしたりする。古川の家にいた頃のように、数部屋隣に彼がいるわけじゃない。
今ほどそれをもどかしく感じることはない。こういう時、側にいてほしいと思ってしまう。そばにいて手を握っていてほしい。抱きしめてほしい。
「一平さん」
ぽつり、と名前が漏れる。
「顔が、見たいな」
ベッドの上で座ったまま膝を立て、そこに顔をうずめる。
「そばに行きたい」
口に出して、自分でちょっと照れてしまう。
一平のことを考えただけで、夢で感じた恐怖が少し薄れた気がする。だからやっぱり、今この瞬間一平に会いたい。
ふと気がつくと、ベッドに座っているはずのお尻の下が固い。何かがおかしいと気がついて、優はやっと顔を上げた。
暗い部屋の中に優はいた。思った通り自分の部屋じゃない。でも、見知った部屋だ。
「ここ――まさか」
そういえば、あの事件の最中に思いつめて無意識にテレポートしちゃったことがあったっけ。優はふとそんなことを思い出した。
あの時は南美のところに跳んじゃったんだっけ。確か一平がいなくなった時で、不安すぎて南美に会いたいってどこかで思っていたはずだ。
ということは、やっぱり。
(やば――ひょっとしなくても、一平さんの部屋?)
この、勝手にテレポートしちゃうのはどうにかしなきゃ、とため息をつきながら部屋の中を見回した。
以前この家にいた頃と、この部屋は変わっていない。パソコンの乗った大きなデスクとチェスト。壁には大きな写真のパネルが飾られているのが見える。それからベッド。
ベッドには人影が寝ている。もちろん一平だ。
それに気がついて、優の顔は一気に赤くなった。
(ね、ね、寝込み襲っちゃったああああ!)
あわあわとしていると、ふとデスクの上に目が止まった。パソコンの前に、フォトフレームが置いてある。暗がりの中、薄く開いたカーテンの隙間から漏れてくる月の光に照らされてぼんやり見えるその中の写真は、以前見たことのある一平の実の家族の写真。まだ小さな一平も一緒に写っている。
そして、もうひとつには。
「私――」
二つ折りになる金属製のフレームには、見開きになった両側にいくつか写真を入れられるように小さな窓が開いているタイプのものだ。左側は大きく1枚、右側には小さく3枚。
その全部に、優の写真が入っている。
優は思わず手にとってフレームに見入った。中に1枚、優と一平が並んで写っている写真がある。秋に紅葉を見に行ったときの写真だ。鮮やかな紅葉をバックに二人とも幸せそうな顔で写っている。優はその時のことを思い出して笑顔になるのを止められなかった。
その時。
「こ~ら、何してんだ」
突然、すぐ後ろから声がした。
「ひゃっ!」
思わず優は飛び上がってしまった。恐ろしすぎて、後ろを振り返れない。声の主は言わずもがな、イコール寝ていたはずの部屋の主だ。気がつかない間に、すぐ背後に立っている。
優は顔どころか耳や首筋まで赤くなっていくのが自分でもわかってしまった。
「ゆ~う? こんな夜中に男の部屋にいるなんて、何考えてんだ」
「ごっ、ご、ごめんなさいいいいいっ!」
そうじゃない、意図的なものじゃないんですうううう!と叫ぼうとして言葉が出ない。
恥ずかしさのあまり縮こまっていると、背後からふわりと抱きしめられた。
「うれしいけどな」
「一平さ――」
くるり、と身体を反転させられて、柔らかく頬を撫でられる。まだ頭の片隅に残っていた夢の恐怖感がふわりと薄れていく。額にかかる前髪もそっと払われて、一平の瞳がまっすぐに優を見つめている。
「優」
優は、拘束されているわけでもないのに身動きがとれなかった。
さっきまであれほど切望していた瞳が目の前にあるのだ。
そのまま柔らかく抱きしめられ、一平の顔が近づいてきて、優は自然に目を閉じた。唇を塞がれて、一平の背中に腕を回す。薄いパジャマを通して、体温が伝わってきた。
「――あれ?」
暖かなキスにうっとりしていたら、突然一平が唇を離した。
「一平さん?」
「本物の優?」
「うん」
一平は押し黙ってしまった。
「一平さん……怒っちゃった?」
「ち、ちがうちがう」
心配そうな優の声に、一平があわてて否定する。
「俺、夢だと思ってたから。顔見るなり襲っちゃって、じゃなくて! いやいやいや!」
こほん、と咳払いをひとつして、一平が改めて優を見た。
「どうした? こんな夜中に来るなんて、何かあったのか?」
「ううん、嫌な夢見て怖かったから一平さんの顔が見たいって考えてたら、いつの間にかテレポートしちゃったみたい」
もう、優の中には夢を見た時のような恐怖はない。誰よりも安心できる場所にいるのだから。
「そっか。どんな夢?」
「えっと――」
「話したくなかったらいいけどさ、悪夢って人に話すと消えるっていうじゃないか」
「そうなの?」
言いながら、脳裏に浮かんだ夢の内容に優の表情がこわばった。もちろんそれを見逃す一平じゃない。
優をベッドに腰掛けさせると、その隣に座って優の肩を抱いた。
優はしばらく逡巡していたが、やがてぽつりと言った。
「捕まってたときの、夢」
「捕まってたって、うちに来る前の? それとも、俺と一緒に捕まった時の?」
「――後の方」
そう言って優は両腕を胸の前で交差させ、自分を抱きしめるようにぎゅっと体を縮ませた。
「その、一平さんが助けてくれたでしょ? その時のことが夢に出てきて」
そのまま目を伏せる。
「実際はすぐ助けてもらったし、何もなかったのはわかってるんだけど、でも、押し倒されて怖かったのが残ってるみたいで――」
「ひょっとして、今までも夢に出てきてたのか?」
優は一平の言葉に小さく頷いた。
「あの、大沼って人と、あと記憶なくしてたときのストーカーの夢と、時々だけど」
「バカヤロ、なんでもっと早く言わないんだ」
一平は優をぎゅっと抱きしめた。一平の胸に押しつけられて、優はドキドキするのと一緒に深い安心感が広がっていくのを感じていた。
「だって」
「心配かけたくない、か? それ、もうなしにしようぜ?」
額に小さく唇が触れて、優は目を閉じた。
「うん。ごめんね」
「もうそんな心配する必要ないんだからな。でももしまた夢に出てきたら、今夜みたいにここに来ればいいよ。一人で苦しむなよ」
「うん。もう大丈夫だよ。一平さんの顔見たら安心した」
一瞬、抱きしめられた腕がもっときつくなって、すぐに身体を離された。
「一平さん?」
「――危なかった」
「危なかったって、何が?」
「そりゃ、俺も男ですから? そんな可愛いこと言われたらマジでやばい」
「え」
優も押し黙ってしまう。一平がくすり、と笑った。
「優、会えてうれしかったけど、俺が理性保ってるうちに戻ったほうがいいよ。そんなのにつけこんで、っていうのは嫌だしな」
「――うん」
そう答えて、家に戻ろうと優は立ち上がった。けれど、一平の手は優の腕を掴んだままだ。
「一平さん」
「うん」
「手……」
「うん」
薄暗い部屋の中で、二人っきりで。
本音を言えば帰りたくなんかない。ずっと一緒にいられればいいのに。
正直、このまま流されるのも悪くないと思っているけれど、でも自分のことを大切に考えてくれている一平のことを思うとそういうわけにはいかない。
優は自分の腕を掴んでいる一平の手に空いている手をそっと乗せて、一平の手を離した。
「会えてうれしかったよ。じゃ、おやすみなさい」
「ああ……おやすみ」
優はそのままテレポートして自分の部屋へ戻っていった。
部屋の中から優の気配がかき消えて、一平は大きくため息をついた。今の今まで触れていたぬくもりが行ってしまったのが寂しくてしょうがない。
真夜中の自分のベッドで、抱きしめれば体温を感じるほど薄いパジャマ姿の優。うれしかったのは本音だけれど、必死に自分を抑えていたこともまた事実だ。
「あーもう、やせ我慢だよな。眠れそうにない」
シャワーでも浴びてくるか、と、一平も部屋を出て行った。
誰もいなくなった部屋の中、カーテンの隙間から細い三日月が薄く影を作っていた。




