誰も傷つかずに
どのくらいそうしていただろう。
はっと気がつくと、優は暗い木立の間に立って空を眺めていた。どうやら公園の中にいるようだ。
少し離れたところに池が見える。池をぐるりと取り囲む遊歩道に設置された街灯がぽつりぽつりと灯っていて、幻想的な雰囲気を醸し出している。自分の背後には蔦がびっしりと絡まったフェンスがあって。
「ここ、もしかして」
見覚えがある。南美と会った公園だ。
(無意識にここまでテレポートしちゃったんだ)
不安ではちきれそうで、でも蘇芳や夏世に気を遣わせちゃいけない。だから強くなろうと決心して気を張っていた。それでも辛くなくなったわけじゃないから、できることなら親友の南美に話を聞いてほしいと心のどこかで思っていたのは事実だ。きっとそのせいで無意識にテレポート、なんておかしな真似をしてしまったのだろう。
「だめだな、私――強くならなくちゃ」
それでも誰も見ていないここでなら、ちょっとだけ弱音をはいてもいいかな。
木立の向こうに見える池に街灯が反射してゆらゆら揺れている。何となくそれに呼ばれるように歩きだした。歩きだしてから自分がまたしてもスリッパ履きのままだったことに気づいて苦笑した。人通りは少ないとはいえ、スリッパで歩いているのを見られるのはさすがに恥ずかしいし理由も説明できない。一旦テレポートして帰ろう、そう思って元居た木立の裏側に戻ろうとした、その時だった。
「きゃん!」
甲高い犬の鳴き声が聞こえた。
振り向いた優の目に映ったのは、木立の向こう、遊歩道のあたりからばさばさしっぽを振りながらこちらを見ているチワワ。首にはリードがつけてあり、リードの先を持って散歩をしていた飼い主が立ち止まった。
「南美……」
「優?」
南美だった。今回はさすがに会えたのは偶然なので、優は驚いて固まってしまった。
ぷりんに引っ張られるように南美が木立へ向かってきて「優」と親しげに名前を呼んだ。けれど優の顔を見て表情を曇らせる。そばに来て優が晴れた表情じゃないことに気がついたのだろう。
「どうしたの? ひどい顔色」
「――」
「麻生さん、帰ってこないの?」
とたんに優の目からぽろっと涙がこぼれる。南美の顔を見て、張りつめていたものがゆるんでしまった。
「みな、みぃ……」
泣き出してしまった優を、優よりちょっと小柄な南美がぎゅっと抱きしめてくれた。
夜風と虫の声が押し殺した泣き声を隠す。
しばらくの間、南美は何も言わず優の背をさすりながらそのままいてくれた。優はなんとか落ち着いて、真っ赤になった目と鼻を手でごしごしこする。
「ごめんね。南美の顔見たら我慢できなくなっちゃった」
「いいんだよ。こういうときの親友だよね」
「うん――ありがとう」
足元ではぷりんがハッハッと息を吐きながら優に体をくっつけてじっと見上げている。ぷりんとは何度も南美の家で遊んでいるので、優のにおいを覚えてくれているらしい。しゃがんで頭をなでているうちに少し気がまぎれてきて、アニマルセラピーってすごいんだな、などと脈略のないことを考えてしまった。ぷりんを抱き上げほおずりする。
「あのね、一平さん、攫われたみたいなの」
「ええっ!」
「お部屋に地図が残ってたの。そこに行ってみたんだけど、手掛かりが途切れちゃって――一平さんがその場所に行ったことだけは確かなんだけど、そこから先がわからなくて」
「警察は?」
「ええと……うん、まあ」
実は優も蘇芳に同じことを尋ねた。蘇芳は「うん、連絡しておくね。知り合いの警官がいるから」と言っていたが、おそらく言葉通りではないだろうと優の勘が告げていた。何しろ相手は天下の昴グループ会長なのだから、知り合いの警官というのがただの警官ではないだろうことは容易に想像がついた。
「心配だよね。もし清野さんがそんな目に遭ってたら、私もきっと不安で不安でおかしくなっちゃうかもね」
「――清野さん?」
南美の口から出てきた名前に優は顔を上げた。
「話したでしょ? 私の彼」
「きよの……」
そうだ。確かにそう聞いていた。そしてあの紙にあったサイン。
あのあと例の地図を両面コピーしたものを蘇芳からもらっていた。ポケットに入れてあったコピーを出して地図の裏側を確認する。「KIYONO」というサインを。
「それ、なに?」
南美が横から覗き込む。しまった、と慌てて紙を後ろ手に隠したが、時すでに遅し。
「優? 今の、清野さんの字?」
「ち……違うよ、きっと」
「じゃあ見せて」
「だめ、だめだよ」
「隠してもだめだよ。もう見ちゃったから!」
後ろに回した手に南美が手を伸ばす。優はそれから逃げようとバランスを崩し――またしても慌てて無意識にテレポートしてしまった。
南美とぷりん付きで。
「きゃあ!!」
どさどさっ!
勢いあまって優と南美は折り重なるように倒れこんだ。倒れる直前に優の腕から逃げ出したのだろうぷりんが、キャンキャンうるさいくらいに吠えている。
「いたた……南美、大丈夫?」
「ゆ、優?」
南美じゃない声に名前を呼ばれて振り向いた。夏世がいる。
テレポートアウトした先は古川家のリビング。あの後今後の方針などを話し合っていた蘇芳、夏世、番匠もそこにいた。
「もらった!」
またしても無意識にテレポートしていたことに呆然としていた隙に、南美が優の手に握られていた地図をひったくる。
「南美! だめだよ!」
南美は手にした紙を開いてじっと見ていたが、ゆっくりと優の方へ顔を向けた。意味が分からない、という顔だ。
「優、その子は? その子が南美ちゃん?」
夏世が駆け寄ってくる。
「何がどうなってるの?」
放心している南美を優と夏世で支えてソファーに座らせ、駿河に飲み物を頼む。
優は南美の隣に座り、彼女を支えながら事情を説明した。
「――それで、南美の彼の名前が、清野さんって言うの」
全員がハッと南美を見る。南美はまだ地図を握りしめたまま微動だにしない。ただ、顔は真っ青で、今にも倒れてしまうんじゃないかと心配になるくらいだ。
「清野さんが――?」
「南美、きっと違う清野さんだよ」
「でも、この字」
「たまたま似てるんだよ」
「けど、もし本当にこれが清野さんの字で、清野さんが麻生さんを呼び出したなら――麻生さんを攫ったのは清野さんで」
「南美」
「でもどうして? 浮気じゃないってあっさり納得してたじゃない。本当にあっさり――そしたらそれが理由じゃなくて――そうよ、あのカフェで地図を渡したなら、麻生さんと会う前から地図を用意してたってことで」
「――」
「そうよ――あの駅で降りよう、って誘ったのは清野さんだった。清野さん、あの日麻生さんに元々偶然を装って会うつもりだったの?」
「南美、もうやめて」
「どうして? 私を麻生さんに引き合わせて、三人で話を――」
「南美っ!」
「――麻生さんに、自分と私が恋人同士だって知らせたかった? そして本当に清野さんが麻生さんを攫った犯人なんだとしたら――」
南美の手から地図がはらりと落ちた。
「麻生さん、私を盾にされて連れていかれた――元々そういうつもりで私に近づいたの? 清野さん」
「だめだよ、確証もなしにそんなふうに疑っちゃ!」
「でもみんなそう思ってるんでしょ!」
南美が部屋にいる人間の顔をぐるりと見まわした。
「この人たち、誰?」
「――一平さんの、家族の人たち」
優がひとりずつ紹介した。
蘇芳を「一平の兄」と紹介されたとたん、南美は大粒の涙をぼろぼろこぼして押し殺すように泣き始めた。優にはさっき南美がしてくれたように彼女を抱きしめて背中をさすってやることしかできなかった。
誰も南美にかける言葉が見つからない。
南美が落ち着いてきた頃合いに蘇芳が静かに言った。
「優ちゃん、どうだろう。今日は南美ちゃん、この家に泊まってもらったら」
「え、ありがたいですけど、南美のご両親が」
「この際だ、権力を行使するよ」
番匠、と蘇芳が拓海を呼んだ。番匠はぱっと秘書の顔に戻る。
「確か彼女のお父さんはうちのグループ企業に勤めてたよね」
「はい、健康食品関連の会社です」
「じゃあさ」
何やら二人でああでもないこうでもないと策略を巡らせているようだ。
どうやったのか、あっという間に言い訳をでっちあげて、南美の両親に連絡を入れ夫婦そろって一週間の出張という名のバカンスに追い出し、その上南美の外泊を納得させてしまった。本当にどう言いくるめたやら、怖くて聞けない。
清野に会いに行く、という南美を夏世と二人で何とか説得し、この夜は南美と優の二人で客用寝室のキングサイズのベッドで寝ることにした。ぷりんも一緒だ。
お風呂に入ってさっぱりしたら、二人とも落ち着いて疲れが出てきた。一緒にベッドに入って、ゆっくり話をした。
優の力のこと、行方不明になってからのいきさつ、一平との出会いとそれからのこと。
南美は黙って聞いていたが、最後は切なそうな顔で優の手を取った。
「ごめんね、何も知らなくて」
「ごめんね、事情を話したら南美が巻き込まれちゃうと思って」
「麻生さん、きっと無事だよ」
「きっと違うキヨノさんだよ。あの地図だって、もっと前から持ち歩いていたものかもしれないし」
二人とも心の中は不安でいっぱいだ。でも、久しぶりに親友が隣にいる。それだけで心強い。
(誰も傷つかずに終わる方法はないのかな。一平さんが無事に帰ってきて、清野さんは関係なくて、南美が幸せになって、私も組織から追われることがなくなって)
いつか、そういう日が来てほしい。
ごく普通の、当たり前の生活に戻れる日が。




