突然の嵐
本当に夏は何事もなく過ぎていった。
古川家や南美のまわりを誰かが嗅ぎまわったり接触したりする様子もない。一平の存在がばれた割には一平の周囲も全くの平穏続き。組織はもう優のことをあきらめたのか、と思うほどに平和だった。優も何度か一平と出かけたりしたが、やはり何事もなく、少しずつ警戒をほどいていった。とはいえ、完全にほどいてしまったわけではない。過剰な警戒をやめた、つまり四六時中古川家と南美の周辺を感知したりということをやめただけだ。
一度四人で旅行にも行ってしまった。蘇芳所有の別荘は地方の高原にあり、蘇芳の夏休みに合わせて出かけて思い切り満喫してきた。ちょっと油断しすぎだったろうか。
そうして九月になった。
暑い夏をずっと引きずるように暑いままの九月も半分以上過ぎ、大学も二学期が始まった。現役大学生である一平は講義が始まり、家にいないことが増えた。最近は時折遅くなる。
「うーん、学祭の準備が遅れててさ」
「学祭! そうなのね」
ある夜何気なしに聞いてみたら一平からそんな返事が返ってきた。どうやら近々大学の学祭があるらしい。
「どんなことするの?」
「俺はサークルだけかな」
「サークルって、あの――」
「「超常現象研究会」」
優は苦笑し、一平はちょっとばかり不本意そうだ。
「そんなに不本意なら辞めちゃうか、他のサークルかけもちすればいいんじゃないの?」
「そりゃそうなんだけど、時間がなあ」
要するに大学の勉強、ずっと続けている空手、そこにサークル二つを掛け持ちするには時間が足りない。超常現象研究会は拘束の少ないゆるゆるなサークルなので、ちょうどいい塩梅なのだそうだ。
「つうわけで、学祭までは時々遅くなるよ、ごめん。でも万が一何かあったらすぐ呼べよ。文字通り一瞬で駆けつけるから」
一平の言葉に二人で顔を見合わせてくすっと笑った。
その言葉通り、学祭が近づくにつれ一平の帰りが遅くなっていった。
そして学祭の二日前、いよいよ準備もクライマックスということで、この日一平は「帰りは深夜になりそうだ」と伝えて出かけて行った。
広い古川家で今日はみんないない。蘇芳は仕事、夏世も大学の用事があるらしく出かけいていった。がらんとした家の中はちょっとだけ寂しく感じる。
すっかり古川家での生活に慣れてしまったんだ、と嫌でも気づかされる。
日課にしている問題集を解き終え、優は勉強机でひとつため息をついた。
総一郎がいない今、優は天涯孤独になってしまった。優を産んですぐ亡くなった母にも、男手ひとつで育ててくれた父・総一郎にも親戚もいないと聞かされている。もし『⒕』に追われる立場でなければ今頃は父のいなくなった家でひとり途方に暮れていることろだろう。つまり、優が一平たちと出会えたことは望外の幸運なのだ。
よくわかっている。自分があの人たちに甘えすぎていることは。けれども今や優にとってこの古川家はいわば家族も同然なのだ。おこがましくて口に出しては言えないけど。
優はそっと一階に降りて庭に出た。午前中もほとんど終わりに近い時間、外は照り付けるような日差しでまだセミが鳴いている。整えられた芝生を横切り、植込みの間を伸びる小道をたどって庭の少し奥へ行く。
カーブを曲がったその先に、色あせてしまったアジサイの姿が見える。いつか一平とこの花の前で話をした、あのアジサイだ。
アジサイの花はもうあの頃のような鮮やかな色はしていない。色は抜け、花弁の先から赤みがかって縮れてきている。が、風合いが変わってこれはこれで美しい。きっと優の心の中に今咲いている花も、あの頃とは色味が変化しているだろう。
――それがどんな色なのか、今はわからない。そして今は知らなくていいと思う。
夕方夏世が帰ってきて、蘇芳からは残業で遅くなると連絡が入った。
なので夕食は優と夏世、駿河の三人。ちなみに京子は配膳を終わらせて帰宅した。駿河は唯一の住み込みなので、時間が合えば優たちと一緒に食事をとっている。
ちょっと静かな夕食の後、駿河がデザートを用意するといって席を立った。
「まだお腹に余裕はおありでしょうか?」
「デザート、何? 駿河さん」
「本日は京子さんお手製のレモンパイでございますよ」
「レモンパイ!」
「メレンゲいっぱいの奴だ!」
夏世と優のテンションが一気に上がる。レモンクリームの上にふわふわのメレンゲをこれでもかと載せてメレンゲに軽く焦げ目をつけたトラディショナルなタイプのレモンパイは優も夏世もお気に入りだ。優はぜひレシピを教わりたいと思っている。
「レモンパイならコーヒーだよね。淹れてくる」
「じゃ、私カトラリーの用意を」
「いえ、優様。私がいたしますのでゆっくりなさっていてください」
私の仕事ですから取らないでくださいね、と駿河にウインクつきで微笑まれてしまうとさすがに何も言えない。おとなしくダイニングテーブルに座ったままテレビでもつけようかとリモコンを手に取った。その時だった。
かたん。
ふと、二階から物音がした気がした。
「あれ? ――二階?」
今日は一平も蘇芳も遅くなるはずで、今この家にいるのはここにいる優と夏世と駿河の三人だけのはず。まさか泥棒――いや、古川家の厳重なセキュリティを潜り抜けるなんてそうそうあり得ない。まさか『⒕』が?
普段なら頼りになる一平もいない今、何かあったら戦う手段を持っているのは優だけだ。
――二人を守らなきゃ。
優は精神を集中させ、細く細く二階に向けて感知の網を向けた。
ところが。
「なんだ、一平さんだ」
優の感知にひっかかったのは一平の部屋、そこにいたのは紛れもなく一平だ。ほっと胸をなでおろした。
それにしてもいつ帰ってきたんだろう。リビングは玄関のすぐ横なのに全然気がつかなかった。とはいえ玄関ホールはお貴族様の邸宅のごとく広いので、それで気づかなかった可能性もあるし、何より相手は一平だ。面倒くさくなって自室に直接テレポートして帰ってきたのかもしれない。
一平が帰ってきた。それだけでレモンパイで上がっていたテンションがさらに上がった気がする。優は「一平さんが帰ってきたみたいだから呼んでくる」と二階へ上がっていった。
一平の部屋は建物の東側の端にある。優はそのドアをこんこん、とノックした。
「一平さん? 帰ってる?」
返事がない。もう一度ノックをしてからそっと優はドアを開けてみた。隙間から顔だけのぞかせ、すぐ正面にあるデスクに一平が座っているのを認める。
「一平さん、お帰りなさい。思ったより早かったのね。夕食は?」
「あ、ああ。ただいま。食べる」
「了解ー。私たち先に食べちゃったんだけど、夏世さんがコーヒー淹れてるから一緒に下に行こう。京子さんのレモンパイもあるって」
「今行くよ」
一平はそう言って立ち上がりながら今まで見ていたらしい紙をデスクの引き出しに押し込んだ。それからこちらへ歩いてくる、その様子を見ていた優はふと違和感を覚えた。
どこが、と具体的に指摘するのは難しいが、一平の様子がおかしい気がする。
ちょっと声に張りがない気がする。
ちょっと表情が冴えない気がする。
本当にその程度の話なのだが、何となく、何となく気になる。
「一平さん、どうかした?」
「え? 何か変?」
「変っていうか――どこか不安そうっていうか、緊張してるっていうか」
顔を近づけて一平の目を覗き込んだ。具合が悪いようではなさそうだけど、やっぱり何か変だ。
けれど一平は軽く首をかしげて笑顔を見せる。
「んなことないって。何もないよ」
そういってぽんぽん、と頭をたたいてきた。その笑顔はいつも通りで、優も「気のせいだったか」とほっとした。
ひょっとしたら今日の学祭準備で疲れていただけなのかも。それで帰ってきたのかな。なら食事してお風呂に入って、早めに寝てもらった方がいいかもしれない。
とはいえ頭ぽんぽん、のやり方が子供をあやすような雰囲気だ。親しみはこもっているかもしれないけど、ちょっと残念な気がする。
「んもう、心配したのに子ども扱い?」
「はいはいお姫様、申し訳ありません」
もう! とふくれっ面をして、ちょっとにらめっこだ。でもすぐに二人でぷっと吹き出してしまった。でも内心「やっぱり妹扱いだな」と少し酸っぱい気持ちがしたことは否めない。
そして一平も何かを我慢するように表情をゆがめたのだが、優はそれには気がつかなかった。
何はともあれ一平に夕食をとってもらわないと。気を取り直して笑顔を作った。
「おなかすいたでしょ? 下、行こう」
一緒に下に行こうとドアの方を振り返り――引き留められた。
「待って」
腕をそっと掴まれ、引き寄せられる。
「わわっ」
引っ張られた勢いでバランスを崩す。転んでしまうかと思ったけれど、そのまま倒れこんだ先は広い胸板。そのまま背中に腕を回されてぎゅっと拘束された。
何が起こったんだろう。今、自分はどうなっているのだろう。
頬はシャツに触れている。頬だけじゃない、全身でくっついていて、夏服の薄い布地ごしに体温が伝わってくる。少し汗臭さの残るにおい、それが全然嫌じゃない。むしろクラクラくる。
(ええと、ええと、これって――ひょっとして)
抱きしめられてる。
そう理解したとたんに全身がカチンとかたまってしまった。
顔がかあっと熱くなり、恥ずかしくて顔があげられない。恥ずかしくて――うれしい。
でも何で? どうして突然? なぜ一平は自分を抱きしめているのだろう。
優が転びそうになったから、ではない。だって転びそうになった原因は一平が引っ張ったからで、ということは一平は優を抱きしめようとしていたということ――なんだろうか。
「いっぺ、さん?」
辛うじて声を絞り出す。どうして、と聞きたいのに、それすら阻まれてしまう。
「優――」
一平に名前を呼ばれた、それだけのことなのに、ちゃん付けされなかったことに驚いてそれ以上声が出せなくなってしまう。多幸感ではちきれてしまいそうで、ひとつの言葉が沸き上がってきて止まらない。
好き。
唐突に理解した。自分をごまかしていたことも、そしてそれが家族や友達に向ける気持ちとは全然違うということを。
一平の指が優の髪をそっとなでる。指が髪にひっかかってつられて少しだけ上を向くと、唇が柔らかく額に降ってくる。髪をなでていた指が髪から額、頬へと滑っていく。その感触が優を溶かしてしまいそうだ。
このまま、もっと。
されるがままの優に一平の顔がゆっくりと近づいてきて、優は自然と目を閉じた。
重なる唇が熱い。
どのくらい時間が経っただろう。
そっと唇が離れた後も熱に浮かされたように何も考えられない。一平の胸にもたれかかり、髪をなでる一平の指を、前髪に落ちてくる一平の唇をただ受け止める。
けれど、ふと視線を動かした瞬間目に入ってきた物に、優ははっと我に返った。いきおい一平の胸を両手で押すと、拍子抜けするほど簡単に一平の腕がほどけて離れることができた。
「わ、わ、私……っ」
じりじりと後じさったが、一平は優を止めることはなかった。そのまま優は一平の部屋を飛び出し、走って自室に飛び込んだ。すごい勢いでドアを開け閉めしてしまったが、それどころではない。勢いのままベッドに飛び込み、薄い夏掛けの布団にくるまった。
頭の中はパニックしていて、思考がまったくまとまらない。まるで頭の中を強烈な嵐が吹き荒れているようだ。
(キス、しちゃった?)
(なんでキスしたの?)
(逃げちゃった)
(でも無理、恥ずかしい)
(一平さん、なんでキスしたの?)
自分でも頭が沸騰しそうなのがわかる。甘酸っぱい羞恥が全身を包んでいて、ベッドの上で転がり回りたいくらいだ。
「ゆーうー、コーヒー冷めちゃうよー」
絶賛パニック中の優の耳にノック音と、夏世が呼ぶ声が届く。そういえばコーヒーとレモンパイでデザート、という話だったなとぼんやり頭のどこかで思い出した。
けれど返事などできるわけがない。自分でも何をどうしていいか全然わからないのだから。
そんなこととは露ほども知らない夏世がドアを開ける気配がした。
「優? どうしたの?」
優はかぶっている布団をぎゅっと握りしめた。
「優?」
きしりとベッドの端に体重がかかった音がしてベッドが揺れる。夏世が布団の中を覗き込んでいるのだ。
絶対今すごい顔してる。真っ赤になっているに決まってるし、きっと泣きそうな顔をしているに決まっている。そんな顔を出せるわけがない。
「――今、顔、出せない」
それでも何とか消え入るほどの小さな声で返事をした。
余計心配になったのだろう、夏世がそっと布団の上から優の背中をなでた。
「この短時間に何があったの? 一平を呼びに行ったのよね、それで――そうか、一平ね? あいつ、何したの?」
途中から声色が低くなっているのが怖い。どうやら一平が何かしたと確信したようだ。間違ってはいないけれど。
夏世の声は怒っているようで、というかすぐにでも一平のところへ飛び出して行って一発殴り倒しそうな勢いがある。
それはまずい、と優はあわてて布団から跳び起きた。
「ち、違うの夏世さん! そうじゃなくて――そうなんだけど……」
必死に伝えようとしたけれど、どう説明したものか悩ましい。さすがに語尾がだんだん消えて行ってしまう。
「え、どっち?」
ベッドの上に座り、頭から布団をかぶったまま真っ赤な顔でうつむいている優に夏世が聞いた。けれど優の顔を見て察したようで「なるほどね」とひとり納得し、夏世もベッドの端に腰かけた。
「嫌なことされたの?」
優はふるふると頭を横に振った。
「嫌じゃないの。そうじゃなくて――急に、キ……キス……されて、びっくりして」
「そっか」
「でも、わからなくなっちゃったの。それで逃げちゃったの」
「わからないって?」
「――一平さんのお部屋の写真が目に入ったの」
キスにうかされ抱きしめられていた時に目に入ったのはその写真だった。写真立てに入れてデスクの上に飾られていたそれは、若い夫婦と小さな男の子と女の子が一人ずつ、どこかの公園で撮影したらしい写真だ。まだ小学校に上がるか上がらないかくらいの子供たちはきらきらした瞳で満面の笑顔だ。どうやらバーベキューをしているのだろう、背景にバーベキューコンロが写っていた。
それは一平にとって大切な思い出の写真。
「ああ、一平の亡くなった家族の」
「妹さん、生きてたら私と同い年だって」
「うん、そう聞いてるよ」
「だから一平さん、私のこと妹さんに重ねて見てるんだって思ってたの。なのに、急にあんな――どうして」
言葉にしたら胸の奥がきゅっと痛くなった。一平が自分のことを妹扱いしていることを今は辛く感じる。
そうじゃない。妹なんかじゃいやだ。
そう焦がれる一方で、欲深くてあさましい自分に泣きそうになる。こじ開けてしまった心の奥に渦巻いている欲は、もう制御できそうになかった。
夏世もこんな醜い自分に呆れてしまうんじゃないだろうか――
そう思って視線を夏世にそっと向けたが、肝心の夏世はうつむいて拳を握りしめている。そしてその拳はギリギリと小刻みに震えていた。
優が気がつき不思議に思った時、唐突に夏世が爆発した。
「あんの、バカ野郎はああああああ!」
(意訳:つまり一平のバカ野郎はきちんと告白もしないでいきなりキスした挙句に優を放置してるってこと? だな!)
夏世は相当怒り狂っているが、辛うじて一平の部屋へ殴りこんでいくのは思いとどまったようだ。これは一平と優の間の問題で、乞われてもいないのに口をはさむわけにはいかないからだろう。
夏世は大きくため息をついて、もう一度優の方を振り向いた。
「優はさ、一平のことが好きなの?」
「――」
小さく頷いて返す。
「でも、今は一平さんと顔、合わせられない」
「そっか」
「私、変な顔してない?」
「大丈夫だよ」
「逃げてきちゃったし」
「そりゃ、あいつが悪いもん」
「こんなグズグズ言ってたら嫌われちゃうかなあ」
「やだ可愛い。あいつにはもったいない」
「え?」
「ううん、こっちの話」
夏世がにっこりと微笑んで立ち上がった。
「優、コーヒー持ってきてあげるからもうちょっとゆっくり話そう」
「うん――」
夏世は下に降りて行った。優は二つ隣の部屋の方へ眼を向ける。そこにいる人が気になって。
(嫌じゃなかった。っていうより――うれしかった)
そっとキスされた唇に指を伸ばす。かすかに触れた指先の感触が、さっきの甘い感覚を思い出させる。
胸の奥に咲いてしまって戻せない想いを抱きしめる。
夏世がマグカップを二つ持って上がってくると、優は自室の扉の所にいた。
「優、ほらコーヒー」
「夏世さん、私、一平さんと話してくる」
「え」
即断即決。対する一平のなんと優柔不断なことよ、と夏世は内心ため息をついた。
「あー、じゃあほら、コーヒー二つとも持っていきなよ。私、下で飲むから」
「ごめんね、ありがとう」
マグカップを二つとも受け取って、優は一平の部屋の前に立った。
手がふさがってノックが出来なかったので少し大きめに声をかける。だが返事はない。
「一平さん、優です」
やっぱり返事がない。様子がおかしいことに気がついて、夏世も一平の部屋の前まで来る。ノックできない優の代わりに夏世がドアをノックして、返事がないのを確認してからそっとドアを開けた。
けれど部屋の中には誰もいなかった。
そしてその晩から一平の姿が消えた。




