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ヴェロニカ  作者: 蟻塚ハチ
3/4

3


 寝室に入るなり、クリストファーはヴェロニカを後ろから抱き締めた。

 うなじに口付けを繰り返した後、自然と向かい合い、深い口付けを交わす。


 上着を脱ぎながら寝台へと移動する。

 クリストファーがヴェロニカの細く柔らかな肢体をシーツの上に押し倒すと、ヴェロニカがクリストファーの胸に手を当てた。

 待てという意思を伝える仕草だった。


「ねぇ、話をもし少し聞かせてくれると言ったでしょう」


 クリストファーは虚を突かれた表情をしていたが、すぐに柔らかな微笑みを張り付けて頷いた。


「そうですね。その方がいい」


 クリストファーは右腕を枕代わりに差し出し、ヴェロニカの長い髪を梳くように繰り返し撫でる。

 ヴェロニカは甘えてクリストファーに体を寄せた。


「そうですね、それでは今度は……」


 クリストファーは天井を見ながら話し始めた。


「ある街に、医者が移り住んできました」


「医者? さっきの男は出てこないの?」


 ヴェロニカが、クリストファーの顔を見上げて意地悪そうに笑う。

 クリストファーは困ったように笑い返す。


「大丈夫ですよ、後から出てきます」


 それで、と話を続ける。


「その医者はとても優秀な医者でした。医学に関する知識は広く深く、多くの経験も積んでいました。その医者の手にかかれば、大抵の病気は完治しました。周りは医者を、褒め称え、感謝し、医者は自分の周り溢れる肯定の言葉に酔いしれ、次第に増長していきます。そうして、終には、自分にはどんな病気も怪我も治せる。自分には助けられない患者などいないと、豪語するようになりました」


「なんだか、さっきの男と、その医者は、少し似ているわね」


 クリストファーはすぐ傍にある小さな頭を見下ろした。

 ヴェロニカのほっそりとした手が、クリストファーの胸の辺りに置かれている。

 その指が時々思い出したように動いて、リズムを刻んだり、優しく撫でたりする。


「……そうですね。そうかもしれません」


 胸元で、落ち付きなく動く手を、クリストファーは握り締めた。

 大人しくなった手を、優しく愛撫する。


「自信家な医者の大言に、さすがに最初は誰も信じていませんでした。けれど、不治の病に侵された病人を治し、もう助からないと誰の目にも明らかな怪我人を治し、そんな事が続く内に、いつの間にか誰もがその医者を信じるようになってしまいました」


 クリストファーは目をぐっとつむる。

 それからまた開いた。


「医者の元には何人もの患者が助けを求めて訪れます。次第に医者は、高額な金銭を要求するようになりました。それでも、患者は後を絶ちません。味を占めたその医者は、更に金額を釣り上げ続けました」


 ヴェロニカはいつの間にか、クリストファーに背を向けていた。

 話に飽きてしまったのか、相槌も打たない。


「面白くありませんか? お待ちかねの男が登場しますから大丈夫です。盛り上がるのはこれからです」


 距離を取ろうとするヴェロニカを抱き寄せて、クリストファーは話を続ける。


「ある日、その医者の元に、1人の女性がやってきました……」


 クリストファーは少し考えるように間を開けた。


「彼女の名前は、ブランと言いました。ブランは幼い頃から病弱で、今の医学では治せない病にかかっていました。医者はブランを診て、病の正体を突き止められず、治す方法も皆目見当がつかない状況でしたが、そう答える訳にはいきませんでした。何故なら、医者には治せない病など、ない筈でしたから。医者は勿論、こう言います。必ず治る、と」


 ヴェロニカの方がびくりと揺れた。

 クリストファーはヴェロニカの肩を優しく触れて、落ち着かせるように上下させる。


「やっと登場ですが、先程の話の男は、ブランのたった一人の家族でした。男は、身の丈を遥かに超えた莫大な金銭を、知り合いに頼み込み借金してまで、その医者に支払いました。そうして、医者を信じてブランの命を預けたんです」


 そこで1度切って、小さく息をつく。


「けれど、医者は金だけを奪って、嘘を教えました」


 常の穏やかな声とは程遠い、低くて平坦で冷たい声だった。


「だ……騙される方も、悪いのよ」


 ヴェロニカは、シーツを鷲掴みにして、クリストファーの腕の中で縮こまり、掠れた声で言い訳のようにつぶやいた。

 クリストファーが可笑しそうにくつくつと笑えば、ヴェロニカの細い肩が小刻みに震え出す。


「確かに、自分の都合の良いように信じ、疑う事を放棄する人間にも、責任がないとは言えないかも知れません」


 さて、話を続けますと言う、クリストファーの声は、違和感を抱かせる程に明るく、どこか病的なものを含んでいた。


「2人にとって、医者がついた嘘は、長い長い闘病生活の中で、初めて出会った希望だったんです。どの医者にも、決して助からないと言われ続けてきた。そんな中で、初めて、大丈夫だと、言ってもらえた。すがらずにはいられなかった。信じずにはいられなかった」


 問いかけながら、こちらを頑なに見ようとしないヴェロニカをぐっと抱きしめて、顔を寄せる。

 腕の中でヴェロニカが震えているのが伝わってくる。


「一体、何がそんなに怖いんですか? 大丈夫、この話ももうすぐおしまいですよ。最後まで聞いて下さい」


 クリストファーは低い声で笑った。

 壁の一点を見つめながら口を開こうとする。

 瞼の裏に焼き付いた情景が、そこに写っている、そんな錯覚を覚えた。


「ブランの病は悪化する一方でした。日に日に痩せ細っていき、息を吸う事すらままならない程、咳は酷くなり、咳のせいで喉が切れて血が混じって、枕はその血に染まり、苦しさにシーツを掻き毟るせいで、爪先からも血が滲んで、枕もシーツも、何度変えても、何度変えても、血だらけで……」


 クリストファーは、上手く呼吸が出来ず、咳き込んだ。

 それでもすぐに言葉を口にする。


「それでも、ブランは微笑んで言うんです。大丈夫、先生も良くなると言っていたでしょう、と。男に心配かけまいと、息も絶え絶えに、繰り返して言うんです。ブランにとっても、男にとっても、その言葉だけが、希望だった。それしか……それしか、もう他に、希望が、なかった」


 話し続けたせいで、声が掠れていた。

 喉がからからに渇いていたが、無視して続ける。


「2人の唯一の希望。そんな希望は、自分勝手で傲慢な医者が作り出した、まがい物に過ぎませんでしたが、2人にとっては、たった1つの希望でした。けれど、まがい物は、現実の前に簡単に崩れ去ります」


 ヴェロニカを抱きしめる腕に力がこもる。


「男は血を吐くような祈りを捧げ、医者が言う通りの未来が訪れるよう願い続け、最後まで医者の嘘を信じていましたが、ブランには、もう、分かっていたのでしょう。自分は、助からない、と」


 背を向けたヴェロニカの肩を掴んで無理やりこちらに向かせる。

 怯えきったその顔には、冷や汗が流れている。

 ヴェロニカの上に覆いかぶさり、微笑みを浮かべて見せた。


「間もなくして、ブランは、死にました」


 ヴェロニカの顔から血の気が引く。

 クリストファーはその頬をゆっくりなぞった。


「ブランを失った男は、その医者が許せなかった。まやかしの希望を与えて、尚も街に居座り、自分を万能だとのたまわるその医者がっ!!」


 クリストファーは拳を握りしめて、ヴェロニカの顔のすぐ横を、力の限り殴り付けた。

 クリストファーの青い瞳は、憎悪の色に染まっていた。


「ブランがベッドで病気に苦しみ、辛さで隠れるようにして涙を流し、病み衰えた自分の姿に絶望していく中、医者は何をしていたか知っていますか」


 クリストファーは、今までヴェロニカの様子を頭に浮かべた。

 堪え続けた、どす黒い感情が噴き出してくる。


「ブランが苦しんでいる時、医者は、だまし取った金を数えて、あらゆる贅沢をしていた。周りには、医者を肯定する言葉が溢れ、掃いて捨てる程の、金も、宝石も、装飾品も、何もかもが手に入る。それでも、更に更にと、人を騙し続け、騙した人間の顔すら、覚えていない。それは、過ぎ去った、取るに足らない事だから」


 クリストファーはヴェロニカの行った言葉を頭の中に浮かべて、ぎりりと歯を噛みしめた。


「……信じる側も悪い? 騙される方にも責任があるっ? そんなものは、騙した奴が、言っていいセリフじゃないんですよっ」


「だ……だって」


 ヴェロニカはクリストファーの視線を受け止めることが出来ず、顔を逸らしている。

 クリストファーは胸に渦巻く激情を必死に宥めた。

 そして、最初のような微笑みを浮かべた。

 ただ、涙が後から、後から、零れ落ちている。


「いいんですよ。最初の話の時のように、これは本当の話じゃないのかと聞いても。私は、必ず、いいえ、と答えます。だってこれは、医者の話だ。実話じゃない」


 これは、実際の話ではないと、繰り返して言う。

 クリストファーの微笑みは、崩れて行く。

 涙が止まらず、堪えるためには眉を顰めるしかない。


 ヴェロニカはブルブルと震えて、こちらを見ようともしない。

 返事もしない。


「最後まで、話しましょう。……ブランを失って医者を憎んだ男は、医者の元を訪れました。患者のふりをして医者を騙し、嘘の話で医者の気を惹き、油断をさせてベッドに誘いました。心にもない甘い言葉を囁いて、優しく抱き締め、そして……」


 左手でヴェロニカの首をなぞる。


「ナイフで、その細い首を、切り裂きました」


 クリストファーの右手にはいつの間にか鋭いナイフが握られている。

 ヴェロニカはそのナイフに釘付けになる。

 かたかたと音が聞こえそうな程、震えながら、ヴェロニカはクリストファーを止めようと言葉を探す。


「そ……そんな、こと、したら……あんただって、ただ、ただじゃ、すまないのよ」


「先程も言いました。これは、実際の話ではありません。それに、悪いのは嘘つきの医者で、貴方じゃない。貴方は本物でしょう。本物の貴方なら、明日の事も分かっているんでしょう。きっと、いつものように、満ち足りた、いつもの生活が続いている筈だ。不安に思う事は何一つないですよ」


 ヴェロニカは絶望したように、押し黙った。


「さぁ、おしまいにしましょう」


 言葉と同時に逆手に持ったナイフを振り上げる。

 ヴェロニカは、ひぃっ、とひきつった声を出しながら、目をつぶり、頭を抱えて丸まった。


「いやぁぁぁあぁぉつっ!!」


 ヴェロニカは悲鳴を上げた。


 

 何かを刺す音が室内に響いたが、ヴェロニカには予想の衝撃が襲って来なかった。

 いつまでたってもの何の変化もない為、ヴェロニカは恐る恐る腕を頭から離して、目を開いた。

 

 クリストファーは既にベッドから起き上がっていて、ヴェロニカの方を見ないようにしていた。

 脱いだ上着を着込み、寝室から出る為の準備を進める。

 寝室の戸の方へ向って行くところで、ベッドの方から、泣き声が聞こえてきた。


「死にたくない、死にたくない、死にたくないよぉっ……怖いよぉ」


 何度も同じ言葉を繰り返し、頑是ない子どものように、泣きじゃくっている。

 クリストファーはヴェロニカを、最初から殺すつもりはなかった。

 ただ、自分が何をしたのかを、理解して欲しかった。

 いつかの、男の話のように、手遅れになる前に。

 

 いつまでも、泣きやまない声が、部屋に響いている。

 まるで、世界にたった独りで、放り出された、幼い子どもように。

 

 クリストファーは、聞いていられず、逃げ出すように、ヴェロニカの家を後にした。





 その翌日、ヴェロニカは遺体となって、発見された。


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