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夜が更ける頃。
全身を黒い衣服で包んだ男が歩いていた。
辺りには濃い霧が立ち込め、冷えた大気が男を包んでいた。
それでも、男は寒さを感じていないかのような様子で歩み続ける。
男の歩くこの通りは、街の中でも治安の悪い地域であり、常識を持った人間であれば、夜遅くに出歩くことはしない。
何か特別な理由を持った人間以外は。
男は複雑に入り組んだ路地を通り抜け、とある建物の前で立ち止まった。
扉に近寄り二度ほどノックする。
少しして中から女が出てきた。
赤みを帯びた茶色の髪が、首から胸元へと伝っている。
伏せた睫毛の下から茶色の瞳が現れ、男を捉えると、とろりと潤んだ。
「いらっしゃい。どうぞ中へ」
此処へ男が来た事は、誰にも見られてはいけない。
挨拶する間も惜しんで、女は男を中へ招き入れ、男もそれに応じた。
中は明かりが乏しかった。
意図的に光を排しているようだ。
男が通された部屋には、暖炉で火が燃えており、それが唯一の光源だった。
暖炉の前には二つの椅子が向かい合わせに並べてあった。
「初めまして。私はクリストファー・レベンスブルクと申します」
黒服の男はそう言って柔らかく微笑んだ。
「ヴェロニカ・モナハンよ。外は冷えたでしょう? 火にあたって」
クリストファーは頷いて礼を言った。
2人は形式上、名のり合ったが、互いの名前を知っていた。
人を介して手紙のやりとりをしていたのだ。
ヴェロニカが椅子に腰をかけ、クリストファーも倣って向かいの椅子に座る。
「早速ですが、これを」
クリストファーが一通の手紙を取り出す。
ヴェロニカは受け取って、開封し手紙を読み始めた。
ヴェロニカがこの街に現れたのは数年前の事だった。
美しい女だったが、それ以外は取り立てて目立った所のない、普通の女だった。
しかし、いつの頃からか街の中で、あの女は魔女なのではないか、という噂が立つようになった。
素性の知れぬ美しい女に、言い寄る男も多く、その事で妬みを買ったのか。
振られた男が腹いせに、噂を振りまいたのか。
その発端は不明だったが、しばらくすると、そんな噂もいつの間にか立ち消えていた。
ヴェロニカは愛想が良く、人と話すのが得意だったのも、その一助となったのかもしれない。
ただ、その噂は一部の人間の間では、留まる事無く静かに広まっていった。
事業で成り上がった富裕層、大地主、貴族など、裕福な者達の間で。
内容も、魔女なのではというあやふやなものではなく、もっと具体的な中身を持って。
地位や財産を持つ人間達は、ヴェロニカと密かに接触し、ある依頼をする。
『未来に何が起こるのか』
ヴェロニカは、未来を見る事が出来た。
それが魔女の力だと言うのなら、彼女は噂通り、魔女に違いなかった。
ヴェロニカは未来を見て、人に教える代わりに、金銭を要求した。
時にそれは、宝石であり、装飾品であり、衣類であり、美術品であった。
街の人々の間で広まった噂は、見当違いという事はなかったし、それが沈静化したのはヴェロニカの人柄のおかげという訳でもなかった。
一時的に街の中で噂が広まったのは、ヴェロニカが最終的には今の形を望んで仕組んだ事だった。
必要な人間以外の間で噂が立たなくなったのも、ヴェロニカが望んで、それを叶え得る力を持った人間が居たからだった。
「承知した、と伝えて」
手紙を読み終わったヴェロニカはそう言った。
手紙を書いたのはクリストファーではなかった。
クリストファーが仕える、とある人物が書いたものだった。
内容は、見てもらいたい未来の内容、それを受け取る時期と方法、その対価の額と受け渡しの仕方。
手紙の差出人の名前は記載されていない。
ヴェロニカも、支払いが成されるなら、知る必要はないと考えていた。
未来の内容によっては推測が付く事もあったが、気付かない振りをする。
詮索は、自分の寿命を縮める事になると、理解していた。
その証に、呼んだ手紙は、クリストファーの目の前で暖炉の火の中に放り込まれた。
「はい、お伝え致します」
そう返答し、これで用件は終わった。
クリストファーは席を立って退室すべきだったし、ヴェロニカも送り出すべきだった。
しかし、互いにそうはしなかった。
火で照らされたヴェロニカの顔は美しかった。
垂れ目で、瞳は火の熱さに潤んでいる。
少し開いた厚みのある唇は肉感的で、あらぬ期待を抱かせるには十分だった。
クリストファーも端整な顔立ちをしていた。
少し儚げで憂いを帯びた瞳は、深い海のような青色だった。
金糸の髪は火に照らされて輝いている。
「よろしければ、少し話をしませんか」
クリストファーはヴェロニカを見て微笑んだ。
人の警戒を解く、穏やかな微笑みだった。
ヴェロニカは何度か瞬いた。
それから頬を染めて艶やかな笑みを返す。
「どんな話を?」
「そうですね。ここは……とても、寒い街です」
「えぇ」
甘い吐息のような返答が返る。
「治安も良くはない。今の貴方なら、出て行く事が出来るでしょう。なのに、ここに居る。何故ですか?」
ヴェロニカは話の内容が気に入らなかったのか、笑みを消して視線を逸らした。
目を伏せると睫毛の影が落ちる。
それすらも美しい絵画のように見えた。
「貴方はもう、これから生きて行くには、十分のものを手に入れている。ここを離れて、静かに暮らした方が幸せになれると思いませんか」
ヴェロニカはそっと声もなく笑う。
顔に落ちてきた横髪を流れるような仕草で耳にかけ、首を傾げた。
「十分って、なぁに? この指輪が幾つあれば、貴方は満足するの? 私は幾つ手に入れたら、十分と言わなければならないの?」
ヴェロニカの指には大粒の宝石をあしらった指輪が飾られている。
それを恋人に嵌めてもらう時のように、手を差し出して見せた。
クリストファーはその手を恭しく取る。
「……ここは、とても寒い街です。……独りは、寂しくないですか」
静かな室内に、そう問いかける声こそが、孤独を訴えているように響く。
「そうね……だったら、きっと私は貴方に会う為に、ここに居たのだわ。物を十分に、手に入れても、離れもせずに。そうしたら、寂しくないでしょう」
ヴェロニカは自分の手を、クリストファーの手に、誘うように、更に絡める。
「ねぇ、別の話をしましょう。面白い話がいいわ。貴方のことも聞きたいの」
本を読んでとせがむ子どものように無邪気な様子で、それとは正反対に、男の視線を意識した媚態を見せる。
クリストファーは、ヴェロニカの手を親指で撫でた。
青い瞳と、茶色い瞳が、火に照らされながら、強く絡む。
暖炉の火が、ぱちりと、大きく爆ぜた。
クリストファーは、ふっと表情を緩めた。
「分かりました。別の話をしましょう」
少し考え込むような仕草をした後、穏やかな声で話し始めた。
「ある街に1人の男が住んでいたんです。彼は、よく女性に好かれていました。背は高く、金髪碧眼で、肌は雪のように白い。物腰は柔らかで、女性に優しく、声は低く穏やかで、どのような事も赦し、慈しむような響きを持っていました。だから彼は女性から好かれ、多くの人は彼を、天使のようだと、褒め称えました」
「……まぁ、素敵ね」
ヴェロニカはうっとりした顔で聞いている。
クリストファーは笑みを浮かべた。
「そうですか? でも、男も人間です。多くのものに恵まれていましたが、中身は他の人と変わりません。褒められれば、喜び、好かれれば、嬉しくなります。ずっとそういう状況にさらされ続ければ、増長し、傲慢になり、そして飽きる。決して、天使では、なかった」
「天使じゃなくいいじゃない。その方がずっと、魅力的」
火の光がヴェロニカの顔に濃い影を作り、蟲惑的な表情に見せる。
まるで彼女が悪魔になったかのような、甘く地獄に誘い込むような、そんな錯覚すら覚える。
「女性は、そういうものなのでしょうか」
生真面目に答える。
そしてまた話を続けた。
「……それから、男は、人々に愛される事を当然とし、複数の女性と関係を持ち、気まぐれに相手に別れを告げる。そんなことを繰り返すようになりました」
ヴェロニカは先が気になって仕方がないようで、目を輝かせて続きを促す。
どろどろとした展開を期待して、少し低俗な表情をしていた。
「男は、人を愛するという事を本当の意味では理解してはおらず、薄っぺらな愛という名目の、中身のないものをやり取りしていただけでした。男の心は貧しく、だからこそ、男に与えられた愛情も、それに値するようなものでしかないのに、男は、その事にすら気付けなかった」
「それで? 本当の愛に出会うの?」
ヴェロニカが茶化した風に聞くと、クリストファーは苦笑を漏らして首を横に振った。
「だったら、良かった」
「じゃぁ、どうなるの?」
「関係を持った1人の女性に、殺されました」
「あら、まぁ」
「男の、ごてごてと飾り付けた中身のない心に、必死に何かを見出して、心を返してくれる女性が居たんです。なのに、男は、飽きた玩具を投げ捨てるようにして、その心を傷つけた。殺されて、当然だったんですよ」
女性関係にだらしのない男が、女に恨まれ、刺されて死ぬ。
ありがちな話だったが、ヴェロニカの予想していたものとは違ったようで、拍子抜けした顔をしている。
「ねぇでもそれって、実話でしょ?」
「いいえ、違いますよ」
「だって、私の知っている人にとてもよく似ているわ」
ヴェロニカは、クリストファーをじっと見て意味ありげに微笑む。
クリストファーはにこりと笑い返す。
「私は嘘を付きませんよ。誠実な人間だと、評判なんです」
ヴェロニカは堪え切れず笑い出した。
「いいわ、そういう事にしておく。それより、もう少し話を聞かせて。面白くなってきたわ」
はしゃぐような声に、クリストファーは頷いた。
ただ、何も言わずにヴェロニカをじっと見つめて、それから立ち上がった。
ヴェロニカの視線はクリストファーの動きを追っている。
優雅な動きで、ヴェロニカの傍まで来ると、その場に跪き、握った手に口付ける。
まるで、騎士が愛する女性に永遠を誓うように。
「このまま、ここで、話を続けますか?」
ヴェロニカを見上げる深い青の瞳は、熱を帯びていた。
どろりと全てを溶かすように熱く、今にも捕食しそうな程凶暴な。
それはヴェロニカが幾度となく、男から向けられたものと同じ類のもので、今までの感じた事のない程、魅惑的なものだった。
ヴェロニカは満足げに微笑む。
「いいわ、場所を移しましょう」
興奮で声が少し掠れていた。




