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第六章 狩りが大好きなシスター

 その日、村の入口に降り立った人物の佇まいに、行き交う誰もが思わず足を止め、息を呑んだ。 青空から降り注ぐ陽光を受けて眩しく輝く、透き通るような金の髪。一切の汚れも歪みも許さぬように整えられた、真っ白なシスター服。そして、その奥に秘められた深く清らかな慈愛を物語るような、柔らかく澄み渡った翡翠色の瞳。胸元に静かに鎮座する一対の銀色に輝く聖印が、風に揺れるたび繊細な光の粒子を振り撒いていた。 彼女の名は、マリア・ハントベル。二十六歳の人間の女性である。 「神の温かな御加護が、この尊き地に住まう皆様とともにありますように。本日よりこの小さな教会へ赴任いたしました、マリアと申します」 マリアが可憐で気品に満ちた笑みを浮かべ、胸の前でそっと両手を合わせると、そこに居合わせた村人たちは一斉に感涙の声をあげ、膝を突かんばかりの勢いで集まってきた。 「おお、神様、仏様、マリア様! ついに、ついに我が村にもまともな聖職者様が来てくださった……!」 「ああ、なんて神聖で清らかな空気なんだ……! これで横暴な魔物や毎日の荒んだ暮らしに怯えることなく、真の平穏と癒やしが得られるんじゃ……!」 過酷な日常と相次ぐ難題に疲弊しきっていた村人たちは、彼女の纏う圧倒的な「聖母」の雰囲気に縋りつくようにして、次々と歓迎の言葉を重ねた。マリアは終始穏やかで温かな笑顔を絶やさず、ひとりひとりの荒れた手に優しく触れては、「大丈夫ですよ、これからは私が皆様を優しく包み込み、お守りいたしますからね」と慈悲深い声をかけて回った。誰もが彼女を、天から遣わされた救世主であり、この苛酷な世界の清涼剤たる「癒やし枠」だと疑わなかった。



 村を一巡し、一通りの挨拶と施設案内を終えたときのことである。マリアは案内役を務めていた村の青年のすぐ隣に立ち、首を少しだけ小首を傾げると、どこまでも爽やかで清々しいトーンで問いかけた。 「それで、本日の狩りは何時から始まりますの?」 「……はい?」 青年は一瞬、己の耳を疑った。あまりにも唐突で、かつ聖職者の口から出るはずのない単語が耳に飛び込んできたからである。間抜けた声を返す青年に対し、マリアはさらにふんわりと笑顔を深め、その可憐な桜色の口元から、恐ろしい言葉をすらすらと滑らせた。 「ええ、狩りですわ。このあたりの深い森林には、一体どのような獲物が棲んでいるのかしらと、赴任する道中からずっと胸を躍らせていたのです。私個人の一番の好みで申し上げますなら、知謀を尽くして泥泥の立ち回りを演じてくれる『人間』が最も狩りがいがありますけれど……まあ、このような田舎町であれば魔物も多く出ますのでしょう? 獲物が魔物であっても一向に構いませんわ。生きものの肉を裂き、骨を断ち、命を絶つ瞬間のあの素晴らしい感触を味わえるのでしたら」 「……あ、あ……」 村の青年は瞬時に血の気が引き、声にならぬ悲鳴を漏らして後ずさった。 清楚で清らかな聖職者の皮を被ったこの女の正体――それこそが、慈愛の笑みを浮かべながら獲物を追い詰める「狩猟狂」にして、狙った獲物は絶対に逃さない世界最強の弓術とトラップ術を誇る伝説の狩人、マリア・ハントベルその人であったのだ。



 マリアの「狩り」は、単なる殺戮ではなく、まさに驚異的かつ芸術的な領域に達していた。 村の外縁に広がる未開の深い森へと足を踏み入れるや否や、彼女は真っ白なシスター服の裾を優雅に翻しながら、目にも留まらぬ速さで森の至る所に罠を仕掛けていく。木々の枝のわずかな撓み、風の流れ、落ち葉に残された微小な獣の踏み跡、果ては空気中の匂いの変化に至るまで――そのすべてを瞬時に把握し、完璧な殺傷域を作り上げていく。 「ふふ、見つけましたわ。実によい毛並みをした、立派な大型の熊魔獣ですこと」 マリアの手には、いつの間にか重厚な漆黒の長弓が握られていた。彼女が細くしなやかな腕で弦を限界まで引き絞ると、周囲の空気が激しく鳴動するほどの圧倒的な威圧感が立ち込める。狙いを定められた獲物がどれほど素早く動こうと、あるいは気配を消して死角に隠れようと、マリアの翡翠色の視線からは絶対に逃れることはできない。 ひゅん、と短く鋭い風切り音が響いた瞬間には、数百歩も先の鬱蒼とした樹海の中で、魔獣の首筋へ正確無比に矢が貫通していた。苦しむ隙すら与えぬ、完全なる一撃必殺。 「命をいただくからには、一瞬で、無駄な恐怖や苦痛を与えずに引き取るのが、奪う者の最低限の礼儀というものですわ」 マリアは静かに微笑むと、倒れた大熊の元へ優雅な足取りで歩み寄った。彼女の腰に差されたシースから抜かれたのは、研ぎ澄まされた一本の解体ナイフであった。 ここからが、マリアという狩人の真骨頂であった。 彼女は手際よく血を流し落とすと、一切の迷いがない鮮やかな刃さばきで、魔獣の皮、肉、骨、そして内臓に至るまでを一切の無駄なく切り分けていく。毛皮は一切傷をつけずに剥ぎ取り、防寒着や耐久性に優れた上質な衣類へ。肉は血抜きをして部位ごとに整え、旨味を凝縮させた最高の保存食へ。骨は削り出して道具や武器の強度を補うパーツへ。内臓でさえ薬用や肥やしとして活用できるよう、手際よく選別されていく。 「命とは、この世界で最も美しく尊い素材であり、神からの賜物。だからこそ、指一本分の肉、一滴の血に至るまで使い切らなければなりません。それこそが、他者の生命を奪って生きる者が果たすべき絶対の責任なのですから」



「――ふざけるな!!!!」



 静寂に包まれていた森の奥から、地響きのような怒号が轟いた。 木々の隙間を押し破って飛び出してきたのは、美しい銀色の毛並みと鋭い眼光を持つ人狼族の青年、レオンであった。彼は森の命を何よりも愛し、いかなる理由があろうとも肉を食べず、命を殺めることを頑なに拒み続ける、異色の存在――いわゆる「ヴィーガンウルフ」であった。 レオンは大木の後ろから飛び出すと、血に染まったナイフを持つマリアと、整然と解体されていく魔獣の遺骸を交互に見つめ、激しい怒りと不快感にその全身を震わせた。 「お前……清らかな聖職者の服を着ておきながら、なんて惨く恐ろしいことをするんだ! 命を奪うなんて絶対に許されない! 生きている者を殺してそんな晴れやかな顔で笑うなんて、悪魔の所業だぞ!」 レオンの鋭い爪が、怒りのあまりわなわなと震えていた。しかしマリアは慌てる様子など微塵も見せず、優雅に手拭いでナイフの血を拭うと、静かにレオンに向き直った。 「まあ、人狼の方ですね。……ですが、お言葉ですが貴方、少々考えが浅薄で愚かではありませんこと?」 「なに……!?」 「『命を奪うな』とおっしゃいましたね。では伺いますけれど、貴方が日々口にしているその野菜や果実は、生きている命ではないとお思いなのですか?」 マリアの透き通るような青い瞳が、レオンの瞳をまっすぐに見据えた。 「植物だって息をし、土から栄養を汲み上げ、子孫を残すために懸命に生きている生命です。貴方は自分の手が赤い血で汚れないことを免罪符にして、植物の命を奪うことを勝手に正当化しているに過ぎません。命を奪うこと自体を絶対の悪とするならば、貴方は一歩も動けず、空気を吸って微生物を殺すことすら叶わぬはずですわ」 「くっ……それは……! だが、動物や魔獣には心がある! 痛みを感じるんだ!」 「だからこそです」 マリアは声を一段と低くし、しかし確かな力強さと理性を込めて言葉を紡いだ。 「だからこそ、一瞬で苦しませずに命を引き取り、その肉も、皮も、骨も、何一つ余すことなく使い切るのです。奪った命を自らの血肉とし、道具とし、次の命へ繋ぐこと。それこそが、命に対する最大の敬意であり、慈愛というものではありませんか? 奪うだけ奪って放置することや、目を背けて生きることこそ、真の悪逆無道です」 「命を……使い切ることが、敬意……?」 レオンは絶句した。 命を奪うことを絶対の悪と信じて疑わなかった自分に対し、目の前にいる女は、命を奪うという行為の圧倒的な重みを誰よりも深く理解した上で、その罪と責任をすべて己の背中に背負う覚悟を持ってナイフを握っていたのだ。



 その日以降、二人の間では奇妙で激しい衝突が日常茶飯事となった。 「マリア! またそんな大掛かりな仕掛け罠を仕界に張り巡らせて! 森の生態系が壊れたらどうするんだ!」 「あらレオン、心配ご無用ですわ。私はこの森に住まう個体数と許容量を正確に計算しておりますの。適度な間引きをしなければ、むしろ冬場に深刻な食糧不足が発生し、群れ全体が共食いの末に餓死することになりますのよ。貴方の言っているのは、全体を見ようとしない無責任な偽善です」 「偽善だと……!? 俺はただ、誰も傷ついてほしくないだけだ! 奪わずに済む方法を探したいだけなんだ!」 「傷つけずに生きていける世界など、どこにも存在いたしません。生きるということは、他者の命を背負って進むこと。貴方はその重みから逃げているだけですわ」 口を開けば命を巡る哲学の議論になり、お互いに一歩も譲らない。村人たちは「またあの二人がやり合っている……」と遠巻きに見守るばかりであった。しかし、どれほど激しく言葉を交わし衝突しようとも、二人には決してブレない確固たる共通の根底が存在した。 それは、「命を絶対に無駄にしない」という魂の矜持であった。



 ある日の夕刻、村の近郊の森林地帯に巨大な変異種――「暴走大猪(グラットン・ボア)」が出現した。 通常の個体の数倍もの巨体を持ち、狂乱状態に陥ったその魔獣は、森の樹木を薙ぎ倒しながら、直線的に村の防壁に向かって突き進んでいた。放置すれば村が一瞬で壊滅するばかりか、暴走した大猪自身も血を流し尽くし、狂気の中で苦しみ抜きながら死ぬことになる。 「僕が……僕が止める! そんな無意味な死に方をさせはしない!」 レオンは果敢に飛び出し、自慢の俊足と人狼族の腕力で大猪の前に立ち塞がった。しかし、巨体から繰り出される突進の衝撃波は凄まじく、レオンの体は一瞬で宙を舞い、地面へと叩きつけられた。 「ぐあッ……!」 地面を転がり、大量の血を吐くレオン。大猪の暴走は止まらない。狂った赤目を見開き、倒れ伏したレオンを踏み潰そうと、丸太のような前脚を高く振り上げた。 その瞬間――森の風がぴたりと止まった。 ひゅん! という鋭い破空音が三度、寸分の狂いもなく連なって響く。 一本目の黒矢が大猪の左目を正確に撃ち抜き、二本目の黒矢が右目を潰し、そして三本目の重厚な矢が大猪の頑丈な眉間を深く貫いた。巨獣の動きがぴたりと止まり、次の瞬間には、巨木が倒れ伏すような絶大な音とともに地響きを立てて崩れ落ちた。 「ふう……間一髪でしたわね」 木々の影から静かに姿を現したのは、漆黒の長弓を構えたマリアであった。彼女の表情には先ほどまでの狂気も甘えもなく、ただ冷徹なまでに研ぎ澄まされた最高峰の狩人の顔があった。 「マリア……どうして……」 「言ったでしょう。命を苦しませ、無駄死にさせるのは、私の美学に反しますの」 マリアは倒れた大猪へ歩み寄ると、静かに膝をつき、胸元で静かに十字を切った。 「貴方の命、決して無駄にはいたしません。この村の厳しい冬を越すための尊い糧となり、寒さに凍える皆の体を温める衣となり、生き革となっていただきます。神の御加護がありますように」 マリアは迷いのない手つきで腰から解体ナイフを取り出し、慣れた手つきで作業を始めた。その真っ直ぐな背中を見つめながら、レオンは固く拳を握りしめた。 自分は大猪を止められなかった。だがマリアは、狂気の中で苦しみ抜くはずだった大猪の命を即座に引き取り、それを「未来へ繋ぐ価値」へと変えようとしている。 「……おい、マリア」 レオンは傷ついた体を激痛に耐えて起こし、血のついた手で大猪のあたたかな巨体に触れた。 「手伝わせろ」 マリアは驚いたように目を見張り、それからふっと柔らかい、シスター本来の優しい笑みを浮かべた。 「あら。ヴィーガンの方に、このような生々しい作業をお手伝いさせてもよろしくて?」 「肉は食わない。だが……奪われたこの命を、一分一厘たりとも無駄にしないためなら、俺は何だってやる。お前が一人で背負っているその『重み』を、俺にも半分分けさせろ」 「……ふふ。少しは骨のあることを言うようになりましたわね、レオン」 マリアは解体用のナイフを一つ、レオンへと手渡した。 「では、皮の剥ぎ方を教えますわ。傷をつけずに綺麗に剥がすのは、少々コツが要りますのよ」



 月明かりが静かに照らす森の中で、シスターと人狼は朝が来るまで黙々と作業を続けた。 肉を切り分け、皮を鞣し、骨を揃える。命を奪うことの残酷さと、それを受け止めて生きることの尊厳。相反する思想を持つ二人は、血の匂いと命の温もりが混ざり合うその場所で、確かに互いの根底にある「命への深い愛」を認め合っていた。



 「……それにしても、マリア」 作業の合間、汗を拭ったレオンがふと思い出したように尋ねた。 「お前、最初に来たとき『人間が最も狩りがいがある』って言ってたよな? あれはただの脅しというか、冗談なんだろ?」 マリアは作業の手を止め、完璧な笑みを浮かべてレオンを振り返った。 「いいえ? 人間は知恵を使い、道具を使い、裏をかこうと必死に立ち回りますでしょう? 追い詰め、仕留めたときの達成感は、素直な魔物の比ではありませんわ。いつか機会があれば、貴方のような足の速い獲物も、完璧な罠でじっくりと狩ってみたいものです」 「……お前、やっぱり根っからの本物の狂人だな」 レオンは引きつった顔で大きな溜息をつき、マリアはクスクスと鈴を転がすように清々しく笑った。 聖職者の皮を被った世界最強の狩人と、命を愛するヴィーガンウルフ。噛み合わないはずの二人の絆は、命の循環を巡る戦いとともに、これからも深く、激しく紡がれていくのだった。


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