第二章 僕たちの共同生活と、詠唱の恥じらい
編入試験での「王都消滅&復元」という前代未聞の騒動から三日。アルスの特例合格と学園編入は無事に決定したものの、その規格外すぎる危険性と存在の秘匿性を考慮した大賢者の独断により、彼の居場所について特別な措置が取られることとなった。「というわけで、今日からここが僕たちの家なんだね!」学園の最奥、樹齢数百年の大樹に囲まれた静寂な区画に佇む、古い煉瓦造りの二階建てコテージ。かつての名誉教授の退職によって空き家となっていたその建物は、今日からアルスとアリスの二人専用の特別寮として割り振られていた。「『僕たちの家』とか気安く言わないで!!」アリスは自分の荷物が入った革のトランクを床に叩きつけるように置き、仁王立ちでアルスを睨みつけた。「いい? おじいちゃんに『アルスを監視・暴走阻止できるのはお前しかいない』って拝み倒されたから一緒に住むだけなんだからね!部屋は一階と二階で完全に別!トイレと風呂の利用時間も分ける!破ったら即座にこの魔導剣で切り刻むからそのつもりでいなさい!」「うーん、でもこの家、間取り的にも魔力線的にも、一階の居間を中心に二人の魔力をシンクロさせた方が結界の効率が良いんだけどな……」「そうやって理論武装で距離を詰めようとしないの!」ぷりぷりと怒りを露わにするアリスだったが、彼女の頬が微かに朱に染まっているのを、アルスは見逃さなかった。(あ、虹色の魔力回路が、また『照れ』の波長で綺麗に揺れてる……)心の中でそんな観察をしつつ、アルスは自分の荷物といっても、数冊の古文書と始祖の杖、そして着替えの入った麻袋くらいだを机の上に置いた。その夜。 学園でのバタバタとした手続きと引っ越し作業を終え、風呂上がりのアリスが二階の自室から一階のキッチンへ冷たい水でも飲みに行こうと階段を降りてきた時のことだった。
「ふぅ……まったく、初日から疲れるわ……」
パジャマ姿でリビングの扉を開けたアリスは、次の瞬間に固まった。
「――っ!?」
リビングの中央。暖炉の火に照らされた空間で、アルスが着ていた服を全て脱ぎ捨て、生まれたままの姿(要するに全裸)で床に羊皮紙を広げ、すやすやと心地よさそうな寝息を立てていたのだ。
「ひゃあぁぁぁぁぁぁっ!???」
絶叫とともに、アリスは瞬時に顔を茹で上がったタコのように赤くし、腰の剣を抜いて。いや、今は剣がないため、近くにあった木製のスツール(椅子)を両手で掲げ上げた。「あ、あんた何やってんのよこの変態!痴漢!破廉恥!なんで裸で寝てるのよぉぉぉっ!!」「ふあぁ……ん……アリス……?」アリスの発狂したような悲鳴に目をこすりながら起き上がったアルスは、自分が裸であることに対して全く恥じらう様子もなく、ブカブカの帽子だけを頭に乗せて(その姿が拍車をかけて奇怪だった)、首を傾げた。「なにって……寝る準備だけど?」「どこが寝る準備よ! 服を着なさい服を!!目の毒でしょうが!!」「ええ? でも僕たちが一族に伝わる古文書を読む時には『自然の理と一体化するため、身に纏う人工物を一切排除して睡眠を摂るべし』って書いてあるよ?特に共同生活における相互理解(婚姻関係の初期フェーズ)においては、素肌による魔力波長の直接干渉が不可欠だって……」「どんな淫乱な古文書よそれぇぇぇぇっ!!」ドカァン!!投げ飛ばされたスツールがアルスの数ミリ横の壁に突き刺さり、木屑が散った。アルスは最小限の身のこなしでそれをかわしつつ、「うーん、やっぱり三千年前の『婚姻の作法』と現代の『マナー』には解釈の乖離があるのかな」と至極真面目に考察している。「いい!?現代社会ではね!服を着て寝るのが当たり前なの!!今すぐ服を着ないと、この大樹ごとあんたを吹き飛ばすわよ!!」 「は、はいっ! 今すぐ着ます!」さすがのアリスの鬼気迫る怒りに、アルスは慌てて落ちていた服を拾い上げ、バタバタと身につけた。「……たく、なんなのよもう……」壁に寄りかかり、ハァハァと荒い息をつくアリス。心臓が早鐘のように打っていたのは、恐怖からなのか、それとも少年のあまりに整った華身を目にしてしまった恥ずかしさからなのか、自分でも判別がつかなかった。ドタバタの夜が明け、数日が経過した。二人の共同生活は、アルスの世間知らずな行動にアリスが振り回されつつも、なんとなくの周期を作り始めていた。そんなある日の深夜。 喉の渇きを覚えて目を覚ましたアリスは、一階の書斎から漏れてくる微かな明かりに気づいた。(……アルス? まだ起きて研究でもしてるのかしら)足音を殺してドアの隙間から覗き込むと、そこにはランプの灯りの下で、真剣な面持ちで羊皮紙に向かうアルスの姿があった。「うーん……『穿て、虚空を割く赤き穿孔』……いや、これだと文法的に火属性のトルクが弱まるかな。『轟け、万物を穿つ不滅の灼熱』……うーん、ちょっと痛々しすぎるか……?」アルスはブカブカの帽子を脱ぎ、頭を抱えて頭を悩ませていた。机の上には、びっしりと文字が書き込まれたノートが広げられている。(……え? なにやってるの、あいつ……?)アリスがそっと息をのんで観察していると、アルスは立ち上がり、姿見の鏡に向かってポーズを決め始めた。右手で前髪を覆うようにしながら、キリッとした格好良い顔を作ろうとしている。「『集え……闇夜を照らす七つの光彩!汝、我が導きに従い、敵を穿て! ……なんちゃって』……うわぁぁぁ、やっぱり恥ずかしいよぉっ!」アルスは真っ赤になって自分の顔を両手で覆い、ベッドへ転がり込んで悶絶した。(つ、詠唱……!?)アリスは思わず口を手で覆った。試験の時、アルスは現代魔法使いに合わせて「燃え上がれ……ふぁいやーぼーる」という見るに堪えないダサい詠唱を披露し、アリスに激しくツッコまれていた。 だが、彼は陰で必死に「現代魔法使いたちが納得するような、カッコいい詠唱」をノートにいくつも書き出し、夜な夜な練習していたのだ。(あいつ……! 現代魔法の『無詠唱』をバカにしてるのかと思ったら、本当は『相手を傷つけないための適切な出力調整の手段』として詠唱を重要視してて……しかも『周りに変だと思われないための格好良いフレーズ』を必死に考えてたの……!?)本来、アルスのような神の域に達した魔法使いであれば、詠唱など何でもいいはずなのだ。それなのに、現代の文化に歩み寄ろうと、十四歳の男の子らしく「格好良い詠唱」を陰で一人で練習して悶絶している。(な、なにそれ……可愛すぎるでしょ……っ!!)胸の奥がキュンと跳ね上がり、アリスは顔熱くなるのを覚えた。昼間は見下すような現代魔法使いを圧倒的な理論で一蹴する冷徹な絶対者のように振る舞っているのに、その裏ではこんなに不器用で、泥臭い努力(と年相応の恥じらい)を重ねていたなんて。
「……誰? そこにいるの?」
アリスの動揺による魔力の僅かな乱れを、アルスの鋭敏な感覚が捉えた。ハッと息をのんだアリスだったが、隠れ切れないと悟り、気まずそうにドアを開けた。「あ……ごめん。喉が渇いて降りてきたんだけど……」「あ、アリス!?い、いつからそこに……!?まさか、さっきの見てた……!?」アルスは顔を限界まで真っ赤にし、大慌てで机の上の「カッコいい詠唱ノート」をバタンと閉じ、背中に隠した。「み、見てないわよ!全然見てない!『穿て虚空を割く』とか『闇夜を照らす七つの光彩』とか、なーんにも聞こえてないから!」「全部聞こえてるじゃないかぁぁぁっ!」頭を抱えて机に突伏するアルス。普段の完璧な天才魔法使いの面影はどこにもない。ただの等身大の、照れ屋な十四歳の少年だった。「……くすっ」アリスは思わず吹き出してしまった。「な、何がおかしいのさ……。僕だって、君たちの文化を勉強しようとしてるんだよ。無詠唱だと出力調整が雑になって危険だから、適切な文法(言葉)で魔力を括り出す必要があるんだけど……どうせなら、君に『ダサい』って怒られないような詠唱にしようと思って……」照れくさそうに視線を泳がせるアルス。 アリスの胸の奥が、再び温かいもので満たされていく。「……バカね。無理して格好つけなくたっていいわよ。あんたが真剣に魔法と向き合ってることくらい、私には分かってるんだから」アリスは歩み寄ると、アルスの机の上に整然と並べられた古文書や羊皮紙に目を落とした。 その中に一つ、異質な気配を放つ、分厚い鉄の装丁が施された本があった。「これ……何?」 「あ、それは……僕たち一族が三千年間、代々書き継いできた『世界の観測記録』だよ」「触ってもいい……?」「うん。アリスなら、いいよ」アリスがそっとその古文書に手を触れた、その瞬間だった。『――ッ!?』アリスの脳内に、溢れんばかりの情景と「膨大な時間の奔流」が直接流れ込んできた。どこまでも広がる静寂な自然。果てしない孤独の中、人里離れた山奥で、たった一人で地面に術式を刻み続ける人々の姿。三年前、三百度前、三千年前。時代が巡り、人々が戦争に明け暮れ、始祖の魔法を兵器として奪い合い、互いを殺し合う中で。アルスの一族だけは、世界の片隅で静かに、誰にも知られることなく大地の傷を癒やし、自然との対話のコードを書き続けていた。そして、最後に残された、幼いアルスの姿。『誰も見てくれなくてもいい』『誰にも感謝されなくてもいい』『ただ、この世界がいつか、本来の美しい調和を取り戻せるように』親も、仲間もなく、ただ歪んだ木の杖と膨大な理論だけを抱えて、極寒の山奥で黙々と大地に光を刻み続けた少年の、気の遠くなるような孤独。(……っ!!)アリスは息を詰まらせ、思わず手を引き抜いた。視界が滲み、目元に涙が浮かんでいた。彼がなぜ、現代の魔法使いが群がる名誉や財宝に一切興味を示さなかったのか。 彼がなぜ、世界を消滅させるほどの力を持ちながら、あんなにも優しく、穏やかな瞳をしているのか。その理由が、痛いほどに分かってしまった。「……アリス? どうしたの? 気分でも悪くなっちゃった?」アルスが心配そうに顔を覗き込んでくる。その瞳は、三千年の孤独を背負ってきたとは思えないほど、どこまでも純粋で、澄み切っていた。「……なんでもないわよ、バカ」アリスはそっぽを向き、涙を誤魔化すようにパジャマの袖で目を擦った。 そして、アルスの手元にある「カッコいい詠唱ノート」をひょいと奪い取った。「ちょっと! 返してよアリス!」「ダメ。私が添削してあげる」「えっ……?」アリスはノートを開き、赤いペンを取ると、パチリとウィンクしてみせた。「あんたの魔法の理論は世界一かもしれないけど、『現代の女の子がキュンとくる格好良さ』に関しては、まだまだ素人なんだから。……私が最高の詠唱を一緒に考えてあげるわよ」「アリス……」「それと……さっきの古文書の記録」アリスはほんの少しだけ顔を赤らめ、小さな声で呟いた。「……これからは、一人で書かなくてもいいんだからね。私も……手伝ってあげるから」夜の静けさの中、ランタンの光が二人の影を優しく壁に映し出していた。アルスは一瞬だけ呆然とした後、今日一番の、とびきり眩しい笑顔を咲かせた。「うん! よろしくね、アリス!」世界のソースコードを書き換える天才少年と、彼の孤独に寄り添うことを決めた虹色の少女。二人の歪で、けれど愛おしい共同生活は、こうして静かに深く結びついていくのだった。




