売る量を減らす商人
翌朝、鐘が九つ鳴る少し前に、木の扉が叩かれた。
昨日と同じ、三度の力強い音。
山田は通訳石を耳へ掛け、扉を開けた。
そこに立っていたのは、人間より頭二つほど大きな魔族だった。
灰色の肌。こめかみから後ろへ伸びる黒い角。厚い外套の下には、肩幅をさらに大きく見せる黒い鎧を着ている。
外見だけで判断するなら、昨夜に扉を開けなくて正解だった。
ただし、本人は両手いっぱいの籠を抱えていた。
『おはよう、ヤマダ! 昨夜は悪かったな!』
「まだ名乗っていませんが」
『町で聞いた! 王国のグレゴールが、剣で缶を開けて汁を浴びたそうだな!』
情報が広がる速度は、想像以上だった。
『あいつらしい!』
バルガスは腹を抱えて笑った。
その後ろにいた二人の護衛も、耐えきれず顔を背けている。
「お入りください。ただし、武器は入口でお預かりします」
『いいぞ。客が店主を怖がらせては、値引きしてもらえんからな!』
「値引きは別の話です」
『もう断られた!』
バルガスは大剣を護衛へ渡し、籠だけを持って支部へ入った。
中身は、黒パン、燻製肉、焼いた根菜、それに大きな陶器の壺だった。
『詫びの朝飯だ。まず食おう』
「先にご要件を伺っても」
『食いながら聞けばいい。魔王領では、同じ皿の飯を食った相手を商談中に騙すのは恥とされる』
「商談後なら、よいのでしょうか」
『お前、冗談が分かるではないか!』
「王国軍の方にも、似たことを言われました」
『王国の冗談は、顔が笑っていないから分かりにくい!』
バルガスはまた笑った。
山田は、朝食を断る理由を見つけられなかった。
陶器の壺には、赤い香辛料をたっぷり使った肉と豆の煮込みが入っていた。
見た目ほど辛くはない。香辛料の香りが強く、黒パンによく合う。
「おいしいですね」
『そうだろう! 俺の妻が作った!』
「奥様が」
『昨夜遅くに商人の家を訪ねたと言ったら、朝飯を持って謝ってこいと怒られた!』
「正しい判断だと思います」
『お前まで妻の味方か!』
ひとしきり笑ったあと、バルガスは姿勢を正した。
気さくではあるが、仕事を忘れているわけではないらしい。
『王国軍が、長く保存できる食料を買ったと聞いた。魔王領の南方監視隊にも同じ悩みがある』
「人数と利用期間を伺えますか」
『まずは六十名、四日間。一日一食だ』
「二百四十食ですね」
『人間と同じ一缶で、一食になるのか』
「体格によります。サンプルをご覧になりますか」
山田が牛肉と豆の缶を見せると、バルガスは片手の上へ載せた。
『小さいな』
「人間一名分を想定しています」
『俺の前に人間用を出したのか』
「比較用です」
『なるほど。なら許す!』
山田はサンプル缶を開け、温めて皿へ移した。
バルガスは一口で大きくすくい、目を見開いた。
『うまい!』
「ありがとうございます」
『だが、少ない!』
「予想していました」
『それに辛さが足りん!』
「それも予想していました」
バルガスは、山田を見てにやりと笑った。
『用意がいいな、ヤマダ』
「昨日、辛い商品をご希望でしたので」
山田は業務用カタログの写真を見せた。
八百グラム入りの大型缶。中身は豆と挽肉を使った、香辛料の強い煮込み料理。
支部には日本語の資料しかないため、写真と数字を使って説明する。
「この大きさなら、体格の大きい方一名、または通常体格の方二名で分けられます。ただし、開封後は保存できません」
『補給所で分ければいい。前線へは小さい缶のほうが運びやすいな』
「おっしゃる通りです。用途を分ける必要があります」
『王国軍はいくつ買った』
「ほかのお客様の数量は、お伝えできません」
『聞いただけだ。俺たちがいくつ買うかも、王国へ言うな』
「もちろんです」
『同じ商品なら、同じ価格か』
「数量、輸送方法、支払条件が同じであれば、同じ価格です」
『魔族だから高くはしない』
「いたしません」
『王国軍から、我々へ売るなと言われたら』
「独占契約を結んでいませんので、販売を続けます」
バルガスは満足そうにうなずいた。
『それでいい。商人が旗を選び始めると、品物より嘘を売るようになる』
陽気な男だった。
だが、補給の用途、商品の大きさ、情報管理、価格条件。確認するべきところは一つも逃していない。
魔王軍の調達官を務めている理由が、少し分かった。
『二百四十食の見積もりを頼む。半額を先に払う。残りは納品時でいいか』
「通常は納品後七日以内ですが、納品時にお支払いいただけるのであれば問題ありません」
『文字の多い契約書も用意しろ』
「お嫌いでは」
『嫌いだ。だが、読まずに判を押すほど馬鹿ではない』
バルガスは立ち上がり、山田の肩を叩こうとして、途中で手を止めた。
『グレゴールに叩かれて、痛そうだったと聞いた』
「そこまで広まっているんですか」
『この町に秘密はない!』
「契約数量だけは、秘密にしてください」
『努力しよう!』
「守ってください」
『分かった、守る! 次の商談では昼飯を用意する。腹を空かせて来い!』
バルガスは大きく手を振り、支部を出ていった。
王国軍より、魔王軍のほうが話しやすい。
それは山田にとって、今週二番目に大きな驚きだった。
一番目は、もちろん異世界が実在したことである。




