新規案件は、地球にはない
月曜日の午前十時十七分、山田誠一郎は課長に呼ばれた。
呼び出しの文面は、社内チャットでたった一行だった。
『会議室Bまで。新規案件の相談』
その一行を見た時点で、山田はあまり期待していなかった。
株式会社ゲートレーディングは、食品、日用品、工業資材まで、売れるものなら大抵扱う中堅商社である。新規案件という言葉は聞こえがいいが、実際には、誰も担当したがらない面倒な取引先か、採算の見えない小口案件を指すことが多い。
山田は四十二歳。営業一筋十九年。肩書は主任で、部下はいない。
昇進試験を受けないかと勧められたことは、これまでに何度もあった。そのたびに山田は「検討します」と答え、実際に一度は検討して、それから受けなかった。
管理職になれば給料は少し上がる。代わりに会議と責任が増え、部下の評価を付け、帰宅する時間も遅くなる。
山田には妻も子どももいない。帰りを待つ家族もいなかった。
広くはない賃貸マンションへ帰り、一人分の夕食を用意する。気になった番組を眺め、風呂に入り、眠くなれば寝る。休日には少し遠い店まで昼飯を食べに行く。
本人は、それを寂しい暮らしだとは思っていなかった。誰かに急かされず、必要以上に忙しくもならず、静かに暮らせれば十分だった。
仕事が嫌いなわけでもない。
顧客の話を聞き、条件に合う商品を探し、見積書を作り、無事に納品する。自分の評価にはさほど興味がなくても、目の前の取引を雑に終わらせるのは嫌だった。
次の役職が見えないのではない。
見えてはいたが、そこへ行きたいとは思わなかった。
会議室Bに入ると、高橋課長が一人で座っていた。机の上には薄い紙ファイルが一冊だけ置かれている。
「お疲れさまです」
「おう。座ってくれ」
高橋俊介、四十九歳。営業第二課の課長で、部下に無茶を言うことはあるが、無理だと分かっている仕事を押しつけるタイプではない。少なくとも、山田はそう思っていた。
「新規案件と伺いました」
「ああ。少し特殊な案件だ」
「特殊、ですか」
「海外案件に近い」
高橋は紙ファイルを山田の前へ滑らせた。
表紙には、社外秘を示す赤い判が押されていた。だが、中身は一枚しかない。
顧客名――アルセリア王国兵站局。
依頼内容――長期保存可能な携行食の提案。
希望数量――未定。
納期――応相談。
備考――現地での面談を希望。
山田は一度読み、もう一度読んだ。
「会社名の誤記でしょうか」
「誤記ではない」
「アルセリア王国という国を存じ上げないのですが」
「俺も四年前までは知らなかった」
「どの地域ですか」
「説明すると長くなる。今日の午後、現地へ行く」
「今日ですか」
「パスポートはいらない。予防接種も不要だ」
海外案件なのに、という言葉を飲み込んだ。
「現地での言語は」
「何とかなる」
「通貨は」
「金と銀が基本だ」
「金と銀」
「ああ」
「課長」
「何だ」
「これは、どこまで本気で聞けばいい話でしょうか」
高橋はしばらく黙ったあと、壁の時計を見た。
「俺も最初に社長から聞いたとき、同じことを言った」
冗談ではないらしい。
山田はファイルを閉じた。
「なぜ私なんですか」
「営業経験が長い。食品も日用品も扱ったことがある。顧客に合わせて話せる。口が堅い」
「最後だけが重要そうですね」
「全部重要だ」
「期間は」
「まずは三か月を想定している」
「想定ということは、延びる可能性がある」
「ある」
「既存顧客はどうします」
「引き継ぎを組む。ただし、この案件の詳細は誰にも話すな」
「海外案件とだけ伝えるということですか」
「そうだ」
「社内で知っているのは」
高橋は人差し指を一本立てた。
「社長」
二本目。
「俺」
三本目。
「そして、今日から君だ」
山田は会議室の外を見た。ガラス越しに、同僚が電話をし、後輩が見積書を作り、部長が誰かに手招きをしていた。
いつもの月曜日だった。
「辞退はできますか」
「現地を見てから判断していい」
「見る前に断るのは」
「社長に直接説明してくれ」
それは、事実上できないという意味だった。
*
午後一時、高橋の運転する営業車で本社を出た。
車は都心を離れ、湾岸の倉庫街へ向かった。空は薄曇りで、トラックの列が道路を埋めている。
「課長」
「何だ」
「まだ会社に戻れる段階で、少しだけ説明をいただけませんか」
「何を知りたい」
「アルセリア王国が、どこにあるのかです」
「地球にはない」
高橋は前を見たまま答えた。
「なるほど」
「驚かないのか」
「驚いてはいます。ただ、運転中の方を困らせないようにしています」
「そういうところだよ」
「何がですか」
「君が選ばれた理由だ」




