4話.わたしのかなちゃん
夜風に撫でられながらベンチでうとうとしていると、ふと懐かしい記憶が脳裏をよぎった。
まだ子供だった頃の、素直で可愛かった夏波の夢だ。
私たち義理の姉弟は本当に仲が良く、近所でも評判だった。
『かなちゃん』『凪ちゃん』と呼び合い、かなちゃんはいつも私にトコトコとついてきては、花が咲くような無邪気な笑顔を向けてくれた。
父親が出ていって以来、母は仕事で忙しく、家でずっと孤独だった私にとって、突然できた可愛い義弟の存在は、何よりの癒しだったのだ。
『凪ちゃん! 抱っこして』
『凪ちゃんだぁーいすき!』
『凪ちゃんさみしいの? ぼく、凪ちゃんのことひとりにしないからね』
(かなちゃん、わたしの可愛い夏波。もう一度、あの子に会いたいなぁ…)
『ねぇ、凪ちゃん、ぼくの――』
「おい、ブス」
「……え?」
鼓膜を刺すような冷たくて低い声に、ふわふわと心地よかった夢の空気が一瞬で凍りつく。
ゆっくりと重い瞼を開けると、そこには眉間にシワを寄せた『現在の生意気な夏波』が立っていた。
「こんなとこでキモい顔して寝てんなよ」
(……せめて夢の中でくらい、可愛い夏波でいてくれてもいいのに……)
まだ寝ぼけて頭が回っていない私は、目の前の不機嫌な義弟に向かって、思わずすがるように口走ってしまった。
「……かな、ちゃん……?」
もう一度、あの可愛いかなちゃんに戻ってきてほしくて。
すると――。
「っ……!!」
生意気な夏波は、ビクッと肩を大きく震わせ、フリーズしたようにピタリと動かなくなった。
怒っているのか、それとも別の感情なのか。その顔は、耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まっている。
「おま、えは……! くそっ! まだ寝ぼけてんの!?」
「え、あ……」
「大人のくせによだれ垂らして寝て、恥ずかしくないの!? ほら、もう帰るよ!!」
ぐいっ! と強引に腕を引かれる。
「ちょっ、引っ張らないでよ!」
私はもつれそうになる足で、足早に歩く彼に必死についていくしかなかった。
***
電車に揺られ、駅から家までの帰り道。
ただでさえ不機嫌だった夏波の機嫌は、なぜかさらに最悪になっていた。ドカドカと足音を荒立てて歩き、時折こちらを鋭く睨みつけてくる。
「……ていうかさ」
突然、沈黙を破った夏波の声は低く冷たかった。
「いい歳して若い男に媚びるとか、恥ずかしくないの? 年齢考えろよ」
「え……?」
いきなりの言葉に、何のことかわからず立ち止まる。
「あんなわかりやすいお世辞、真に受けてさ! あんなのただの社交辞令だって解れよ。勘違いしてニヤけちゃってさ」
「……」
「あー、そっか。わかんないのか。ブス子は恋愛経験ないもんな」
鼻で笑うように吐き捨てられた言葉に、カチンと頭に血が上る。
彼が言っているのは、さっき駅で別れた柴崎くんのことだ。
(恋愛経験がないって…いったい、誰のせいだと思ってんのよ…!)
私の貴重な青春時代を、すべてお前の世話に捧げたからだろうが!
喉まで出かかった怒鳴り声を、私はギリッと奥歯を噛み締めて飲み込んだ。




