26話. 賑やかなマーブルカフェ
約束の十一時少し前。駅の改札に到着すると、すでにシバケンの姿があった。
普段のピシッとしたスーツ姿とは違う、ラフなニットにスラックスというカジュアルな私服姿も、彼の整ったスタイルによく似合っている。
「先輩、おはようございます。体調、平気ですか?」
「ご、ごめんね柴崎くん! 昨日はほんとに……私、変なこと言ってなかった?」
「ふふ、大丈夫ですよ。楽しかったですから。さ、行きましょうか」
爽やかな笑顔で私の不安をさらりと流し、シバケンは自然な動作で歩き出した。
※
夏波の通う高校に到着すると、校門のアーチをくぐった先は、文化祭特有の熱気と喧騒に包まれていた。
色とりどりの立て看板、すれ違う楽しげな高校生たち、中庭から漂ってくる焼きそばや甘い匂い。社会人である私にとって、その眩しすぎる青春の空気は少し気恥ずかしくもあった。
「なんだか懐かしいですね、こういう雰囲気」
「そうだね……。それにしてもすごい活気」
シバケンのスマートなエスコートに助けられながら、私たちはパンフレットを頼りに夏波のクラスへと向かった。
教室の入り口に辿り着くと、そこには可愛らしい手書きの看板が立て掛けられていた。彼のクラスの出し物は、どうやら男子がメイド、女子が執事を務める「性別逆転カフェ」らしい。
(あいつ、まさか真面目にメイド服着て接客なんてやってるのかな……)
私は教室に足を踏み入れ、さりげなく視線を巡らせた。
フロアでせっせと接客をしている、やけにガタイの良いメイド服姿の男子生徒たちの中に、あの不機嫌そうな顔は見当たらない。教室の後ろ半分は背の高いパーテーションで仕切られており、どうやらそこが簡易的な調理スペースになっているようだった。隙間から忙しそうに動く生徒たちの姿がいくつか見えたが、はっきりとは確認できない。
「弟さん、見当たりませんね。奥で調理でも担当してるんでしょうか」
「……かもね。(あいつのメイド服姿、ちょっと見てみたかった気もするけど)ま、わざわざ顔合わせなくて済んでよかったよ」
少し安堵したような、拍子抜けしたような複雑な気分になりながら、私たちは案内された窓際の席に向かい合わせで腰を下ろした。
とりあえずということで注文したクレープとコーヒーが運ばれてくる。
「いただきます」
一口齧ると、たっぷりの生クリームとイチゴの甘さが口の中に広がった。二日酔い気味の胃には少し重いが、甘いものはやはり美味しい。
「美味しいね、これ」
「そうですね。……あ、」
ふと顔を上げたシバケンが、言葉を切った。
彼は私の顔を見た後、ふいっと視線を外し、私の背後——教室の奥のパーテーションの隙間あたりへと目を向けた。
何かを見つけたのか、彼の目がすっと細められる。
そして、シバケンは私へ視線を戻したかと思うと、不意に立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出して私に顔を近づけてきた。
「え……っ?」
思わず息を呑む。
シバケンの端正な顔が目の前に迫り、すっと伸ばされた彼の長い指先が、私の頬にそっと触れた。
「クリーム、ついてますよ」
甘い声とともに、指先で優しく頬のクリームを拭い取られる。至近距離で見つめられ、私の顔が一気に熱を持った。
「あ、ありがとう……っ、自分でやるから!」
「ふふっ。先輩、案外隙だらけですね」
シバケンが私の目を見てクスリと笑った、まさにその瞬間だった。
――ガタンガタンッ!!
突然、教室の後ろの方、パーテーションの奥から激しい物音が響いた。
パイプ椅子を力任せに蹴り倒したような乱暴な音に、私とシバケンは同時にそちらへ振り向く。店内のざわめきが一瞬ピタリと止まった。
「な、なんだろ……?」
すると、パーテーションの隙間から、フリフリのメイド服を着た見知らぬ男子生徒が慌てた様子で顔を出した。
頭に載せたフリル付きのカチューシャを少し斜めに歪ませた彼は、なぜか冷や汗をだらだらと流し、背後の見えない『誰か』をひどく怯えたように振り返りながら、フロアに向かってペコペコと頭を下げた。
「し、失礼しましたーっ!!」
メイド服の男子生徒は裏返った声でそう叫ぶと、逃げるようにパーテーションの奥へと引っ込んでいった。その後ろから、微かに低く舌打ちをするような、ひどく苛立った気配を感じた気がしたが、周囲の喧騒にすぐにかき消されてしまった。
「……? 今の、なんだったんだろう……機材でも倒したのかな」
私が目を白黒させていると、目の前に座り直したシバケンが「さあ?」と小首を傾げた。
だが、その視線はしっかりとパーテーションの奥に向けられている。
「元気があっていいんじゃないですか。文化祭っぽくて」
シバケンはそう言って、ペロッと指についたクリームを舐めた。
その口元には、まるで面白いおもちゃを見つけた子供のような、とびきり楽しげで、どこか意味ありげな笑みが浮かんでいた。




