24話.君は甘やかな悪魔side夏波
すっかり静まり返った深夜の住宅街。
等間隔に並ぶ街灯だけが、二人の影を長くアスファルトに落としていた。
「んん……」
背中から聞こえる微かな寝息と、アルコールが混じった甘い香り。
此坂夏波は、バーで完全に酔い潰れていた義姉の凪子をおんぶしたまま、家への道のりをゆっくりと歩いていた。
ズシリと伝わる彼女の体温と柔らかさに、心臓がうるさいほど鳴っている。
(こんなに無防備に寝顔晒して……ほんと、誰かに連れ帰られたらどうするつもりだったんだよ)
呆れと心配、そして隠しきれない愛おしさを噛み締めていると、不意に背中の凪子がモゾモゾと動いた。
「……ん、あれぇ?」
「……起きた? 凪ちゃん」
無意識のうちに、家でこっそり呼んでいる時の名前が口をついて出た。
すると凪子は、夏波の背中に頬をすり寄せながら、ふにゃりと力の抜けた笑顔を浮かべた。
「ん...?かな..?あーそっかぁ........今眠ってるんだ」
呂律の回らない甘ったるい声。
どうやら彼女は、あまりの泥酔っぷりに、今ここが現実の帰り道ではなく、夢の中だと思い込んでいるらしい。
「ふふふ、こういう風にくっつくの久しぶりだねぇ?
...もっとこうしててもいい?」
普段の、周りの空気を読み波風を立てない『大人な此坂先輩』やいつもの夏波に対する少し素っ気ない態度からは想像もつかない、ふにゃふにゃとした可愛らしい態度に夏波は一瞬戸惑ったが、すぐに小さく息を吐き出し、この甘い勘違いに乗っかることにした。
「……いいよ、凪ちゃん」
その言葉を口にした瞬間、夏波の胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。
いつぶりだろう。面と向かって彼女を「おい」でも「ブス」でもなく、愛情を込めて『凪ちゃん』と呼んだのは。
「えへへ……。今日は、いつもと違って、お話できるんだねぇ……ふふ」
背中で無邪気にコロコロと笑う凪子の声に、夏波の心がじんわりと熱を帯びていく。
そういえばさっき都合のいい夢がなんだと言っていたことを思い出した。
(凪ちゃんは……僕の夢を、見てくれてる……?)
それがたとえどんな夢だとしても、彼女の深層心理の中に、自分を求めてくれる気持ちが少しでもあるのなら。それだけで、飛び上がりたいほど嬉しかった。
「……ねぇねぇ?」
「なぁに? 凪ちゃん」
夏波が優しく問い返すと、凪子は嬉しそうに身をよじり、とんでもない爆弾を落とした。
「うふふ、……かなちゃん」
――ドクンッ。
夏波の心臓が、文字通り止まりそうになった。
幼い頃、互いに呼び合っていたあの頃のあだ名。
ずっと、ずっと聞きたかった声。
「……凪ちゃん」
夏波は足を止め、夜の静寂の中でぽつりとこぼした。
「ごめんね。最近、ひどいことばっかり言って」
お説教ババア、時間の無駄、年齢考えろ――心にもない暴言で彼女を傷つけてきた後悔が、波のように押し寄せてくる。
「…..…えー? そんなの、もう忘れたぁ」
気にする素振りも見せず、ケラケラと笑う凪子。
昔みたいに、こうして何の壁もなく、大好きな凪ちゃんと話せている。
「凪ちゃん……っ、凪ちゃん……」
こらえきれず、夏波の瞳からポロリと一粒の涙が溢れ落ちた。
「あのね、かなちゃん」
「うん……」
「昨日……言ってた、好きって。……あれ、ほんと?」
背中の凪子が、期待を込めるように尋ねてくる。
(昨日? 僕はそんなこと一言も……)
そこまで考えて、ハッと思い至った。
(そうか……凪ちゃんが思い描いた夢の中の僕が言ったのか)
凪子の夢の中に現れて、告白までした「夢の自分」に、夏波は少しばかり嫉妬しながらも、強く思った。
(言っても、いい……? 今だったら)
こんなふうに、自分の気持ちを伝えても。
夢だと思っていてもいい。
明日になって、全部お酒のせいで忘れちゃっても構わない。
夏波は、背中の重みと温もりをしっかりと確かめるように腕に力を込め、ハッキリと告げた。
「うん、凪ちゃん。――大好きだよ」
ずっと胸の奥底に封じ込めていた、重く、不器用で、どうしようもない本音。
その言葉を聞いた凪子は、「えへへ」とこの世のすべてを手に入れたような至福の笑い声を漏らした。
そして、夏波の首元にギュッと腕を回し、顔を近づけてくる。
「うふふ……ねぇ、かなちゃん?」
「……っ、なに」
「また昨日みたいに……よしよし、して?」
ゾクッ。
耳元に至近距離で吹きかけられた熱い吐息と、あからさまに甘えきった声色に、夏波の全身の血が沸騰したように逆流した。
「〜〜〜〜ッッ!!!」
耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染め上げ、夏波は天を仰いだ。
「おまっ……ばっか、もう! 本当にばかっ!!」
これ以上はどうにかなってしまいそうで、夏波は必死に歩みを速める。
(僕が、どんな気持ちで毎日毎日我慢してると思ってんだよ……っ!)
こんなに無防備に甘えられたら、押し殺している理性が吹き飛びそうだ。
夢だと勘違いしている彼女の態度は、あまりにも残酷だった。
(こんなの……いつもより、明日からの日常が辛くなっちゃうよ……っ)
幸せすぎる地獄のような帰り道。
文句を言いながらも決して背中の手を離さない夏波の足音だけが、深夜の住宅街に虚しく、けれどどこか温かく響き渡っていた。




