23話.微笑みアンダーカレントside夏波
高校生には似つかわしくない夜の街を、此坂夏波は全力で駆け抜けていた。
頭の中には、電話越しに聞いたマスターの言葉がガンガンと響いている。『あなたのお姉さんの、凪子ちゃんがいるのよ。完全に酔い潰れちゃってて……』
(こんな時間まで、一体何をしてるんだよ……っ)
息を切らしながら角を曲がると、見慣れた『Primavera Espresso & Bar』の看板が見えた。夏波は迷わずドアノブに手をかけ、勢いよく扉を開け放つ。
チリリン!
軽やかなドアベルの音が店内に響いた。
「ごめん、ハルちゃん。遅くなって……」
少し息を切らしながら店内を見渡す。すると、奥のテーブル席にいた常連の女子たちが「きゃーーっ! 夏波くーん!!」「嘘、ホントに来てくれたぁ!」と悲鳴のような歓声を上げた。
しかし、今の夏波にはそんな黄色い声など一切耳に入っていなかった。
目当ての姿を探し、夏波の視線は一直線にカウンター席へと向けられる。そこには、顔を真っ赤にして酔い潰れている凪子の姿があった。そして――そのすぐ隣には、あの胡散臭い男、柴崎が座っている。
(あの男……っ。こんな時間まで凪ちゃんを連れ回した挙句、あんなに飲ませたのか……!)
ドクン、と腹の底から黒い怒りが込み上げてくる。
さっきまで焦燥に駆られていた夏波の表情が、スッと温度を失い、険しい怒りに満ちたものへと変わる。その鋭い視線に気づいたのか、いつの間にか顔を上げていた凪子と目が合った。
その瞬間、凪子の瞳からポロポロと大粒の涙が溢れる。
ズキン、と夏波の心が痛む。
(僕のせいで、泣いてるのか……?)
激しい後悔が胸を締め付けたが、今は何よりも彼女をこの場から連れ出すことが先決だった。
「えっ……此坂先輩? どうしたんですか、大丈夫ですか!?」
泣き出した凪子に慌てて声をかけ、柴崎がその肩に触れようと手を伸ばす。
夏波は無意識のうちに動いていた。二人の間にスッと割り込み、柴崎の手を静かに、しかし確固たる意志で制止する。
驚く柴崎を無視し、昂る気持ちを抑え夏波はできるだけ落ち着いた声を意識して話しかける。
「……帰ろう、凪ちゃん」
その声に、凪子は驚いたように見上げてくる。
「……やだ」
いつもなら周りの空気をよく読み、波風を立てないように振る舞う凪子が、まるで子供のようにぷいっとそっぽを向いた。
「えっ、なんで」
「やだったらやだ!だいたいあんたねえ! 未成年なのにこんなとこに、しかも女の子にナンパされて来るなんて……!!」
呂律の回らない言葉で全力の文句をぶつけてくる姉に、夏波は目を丸くした。
「何言ってんの? ちょっとなんの話!?」
「ハルちゃんよ! あんたがいっつも電話してるでしょ、ハルちゃん。私の夏波を不良の道に引きずり込んだ……!」
ポロポロと泣きながら的外れな怒りをぶちまける凪子に、夏波は思わず脱力しそうになる。
「ハルちゃん? ハルちゃんって、この人だけど……」
夏波が指差した先には、ガッチリとした屈強な体格に、長い髪を後ろで一つに結んだインパクト抜群のマスターが立っている。
「はぁ〜い♡ よろしくね凪子ちゃん」
マスターが野太い声でウインクを飛ばすと、凪子はぐにゃぐにゃとカウンターに突っ伏しながら、ごちゃごちゃと文句を言い続ける。
「あーも、わかったから、お家かえろ? 凪ちゃん? ね?」
「てゆぅか、さっきからなんなの凪ちゃん凪ちゃんって。あー、わかっら、これは夢ら。あんたは私が作った都合のいい夢の夏波ね」
「もー、何言ってるの凪ちゃん。ほら、捕まって……」
夏波はため息をつきながら、ぐずぐずと文句を垂れ流す、崩れ落ちそうな凪子の体をしっかりと抱き留めた。
「ハルちゃんごめん、凪子の分、僕の給料払いでいいかな」
夏波がカウンター越しのマスターに声をかけると、マスターはニヤリと笑った。
「ていうことは、またお店出るってことね夏波? 言質とったわよ」
「明日まで文化祭だから、来週どこか1日、だったら」
その言葉を聞いた瞬間、背後のテーブル席から「きゃー!」と常連女子たちの歓声が湧き上がった。
「あっ、凪子さんの分は俺が払いますよ! 俺が誘ったので」
不意に、横から柴崎の爽やかな声が割って入ってきた。
その『凪子さん』という親しげな呼び方に、夏波の眉がピクリと反応する。
「いいえ、大丈夫です。ーー“他人”のあなたに払ってもらう訳にはいかないので」
夏波が冷たく言い放つと、柴崎の顔に張り付いていた人懐っこい笑顔がピタッと固まった。
夏波はにっこりとした笑顔を柴崎に向け、はっきりと告げる。
「すみません、柴崎さん、でしたっけ? うちの凪子がご迷惑をおかけしました。こんな時間ですし今日は連れて帰りますね?」
それは、一切の反論も、介入も許さない。明確な「身内からの拒絶」だった。
柴崎からの返答を待つことなく、夏波は凪子を抱きかかえるようにして店を出ていく。
チリリン、とドアベルが鳴り、嵐が去った後のような静寂が残された。
一人残された柴崎は、カウンターのグラスを見つめながら、誰にも聞こえない声でボソリと呟く。
「……ハッ、わっかりやすい牽制。あれが『反抗期で全く懐いてない弟』?」
姉の愚痴とのあまりのギャップに、柴崎は腹の底から愉快そうに笑い声を漏らした。




