20話.ため息ポニーテールside夏波
(……遅い)
朝の光が差し込むリビングで、此坂夏波は壁掛け時計と、廊下の奥にある姉の部屋の扉を交互に睨みつけていた。
ダイニングテーブルの上には、こんがりと焼けたトースト、目玉焼き、そして氷を浮かべたグラスのオレンジジュースが並んでいる。
昨夜、ソファに脱ぎ散らかされていた凪子のブラウスやストッキングを片付けながら、夏波はひどく後悔していた。
数日前の夜、駅前で柴崎と別れた凪子に対して「いい歳して若い男に媚びるとか、恥ずかしくないの? 年齢考えろよ」と、思ってもいない酷い言葉をぶつけてしまったこと。そして昨日の朝も、なんだか様子がおかしかった凪子に素直に接することができなかったことだ。
(夜の『凪ちゃん』には、あんなに素直に好きだって言えるのに……)
せめてもの謝罪と仲直りのきっかけを作ろうと、普段はやらない朝食作りを買って出たというのに。肝心の凪子は、いつまで経っても起きてくる気配がない。
時計の針は、無情にも登校のタイムリミットを告げようとしていた。今日は文化祭の初日、校内祭の日だ。クラスの出し物の準備があり、これ以上は絶対に待てない。
「……っ、あーもう! 知らない!」
照れ隠しと苛立ちがないまぜになった感情を持て余し、夏波は乱暴にメモ帳をちぎり取った。
本当は『昨日はごめんね』と書きたかったはずのペン先は、感情の裏返しで『バカ』というたった二文字を乱暴に書き殴っていた。
そのメモを皿の脇に叩きつけるように置き、夏波は重い足取りで凪子の部屋の前へと向かう。
ドンドン! ドンドン!!
「いつまで寝てんの!? 僕もういくけど遅れても知らないよ」
ドアの向こうから「――ひゃいっ!?」という間の抜けた悲鳴が聞こえたのを確認し、夏波は少しだけホッと胸を撫で下ろし、足早に玄関を飛び出した。
***
「はぁー……かんっぺきな美少女だよ、此坂くん!」
数時間後。文化祭の喧騒に包まれる教室で、クラスの衣装担当である玉井和那が、メガネの奥の細めた瞳を輝かせ、うっとりとした感嘆のため息を漏らした。
細身で穏やかな性格の男子生徒である彼は、今日は三つ編みおさげにロングスカートのセーラー服という『文学少女』風の女装に身を包んでいる。
今年の夏波のクラスの出し物は『性別逆転仮装カフェ』。
和那の手によってバッチリとメイクを施され、艶やかな黒髪のウィッグを装着し、それを高めに結んだポニーテール、クラシカルなメイド服に身を包んだ夏波は、鏡の前で死んだ魚のような目をしていた。
持ち前の大きなタレ目がちな瞳は、アイラインとつけまつげによってさらに強調され、元々色白の肌は薄っすらとファンデーションを乗せることで、雪のような肌の白さがより一層際立っている。元々整っていた顔立ちは、ボーイッシュな面影を完全に消し去り、不機嫌そうなポニーテール美少女へと変貌を遂げていた。
「ほんとほんと! 夏波くんヤバすぎ!」
「そこらの女子より何倍も可愛いんだけど!」
「写真撮っていい!?」
クラスの女子たちがキャーキャーと群がり、スマホのカメラを向けてくる。
「……撮るな。消せ」
低くドスを効かせた声で威嚇するが、黒髪を揺らすメイド服姿のせいで「ツンデレ美少女の照れ隠し」にしか見えず、女子たちの黄色い歓声はさらにボリュームを増すばかりだった。
「おーおー、大人気の看板娘が不機嫌そうに突っ立ってんぞ(笑)」
「人気者も大変だねぇ」
面白がって冷やかしてきたのは、クラスメイトの来栖圭人くるすけいとと戸川浩太とがわこうただ。
……が、その二人の姿もまた、普段とはかけ離れていた。
コンセプトが『性別逆転』である以上、クラスの男子は全員女装である。
浩太はサイズがパツパツのナース服を着ており、元々顔は涼しげで爽やかなのだが、バスケで培われた逞しい腕の筋肉が浮き出ていて、女の子とは到底言い難い。
一方の圭斗は、なぜか変にノリノリでギャル風のウィッグを被り、派手な制服ギャル姿に変身していたが、喋るといつもの低い男子の声なので違和感が凄まじい。
「うるさい、浩太、圭斗……。なんで僕がこんな格好……。お前らこそなんだよそのふざけた格好」
夏波がメイド服の裾をギュッと握りしめながら恨みがましく睨むと、ギャル姿の圭斗がニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて顔を近づけてきた。
「俺らはこれでいいんだよ、この催しはお前が主役。それより、今日は身内だけの校内祭だけど、明日は一般公開だぜ。なぁ夏波――当然、ねーちゃん呼ぶんだろ?」
その瞬間、夏波の肩がビクッと跳ね上がった。
脳裏に、今朝起きてこなかった凪子の顔が浮かぶ。
もし、このウィッグまで被った完璧な女装姿を凪子に見られたら?
『なにやってんの、あんた』と鼻で笑われるかもしれない。いや、それどころか、他の男――例えばあの胡散臭い柴崎など――と一緒に文化祭に来て、自分のこんな姿を見られるなんてことになったら。
「絶対、むり!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ夏波をよそに、教室の入り口でパンッ!と大きな拍手が鳴った。
「みんな、準備はいい!? そろそろ開店よ!」
クラス委員長の乃中ちえりが、声を張り上げた。
普段は大きなクリっとした目に黒髪のショートボブという女の子らしい真面目な出で立ちの彼女だが、今日は女子の『男装』コンセプトに合わせて、カッチリとした黒のギャルソン風のベストとスラックスに身を包んでいる。
キリッとした男装で仁王立ちする姿からは凄まじい気迫が漂っていた。
「今年の3年A組は、絶対に売上ナンバーワンを取るわ! だって、優勝クラスの景品は『校長先生所有の、海の家付き別荘特別宿泊券』なんだからね! みんな、死ぬ気で接客しなさい!」
「おーーっ!!」
異様な熱気を帯びた歓声が教室に響き渡る。
クラスのボルテージが一気に上がる中、ちえりはそそくさと夏波のそばに近づき、周囲に聞こえないような小声で話しかけてきた。
「……あの、此坂くん。少し休憩時間に入ったら、裏階段の踊り場に来てくれないかな……?」
普段の張り上げた声とは違い、どこかモジモジと遠慮がちな態度。上目遣いで夏波を盗み見るその瞳には、隠しきれない緊張が滲んでいた。




