17話.センチメンタルターバン
パチッと目が覚めて、視界に飛び込んできたのは、いつもの見慣れた自室の天井だった。
さっきまでの夢の余韻が、まだ頭皮と耳元にじんわりと残っている。
「はぁーーーー……」
私はベッドの中で、今日一番の深いため息を吐き出した。
(なんなの、あれ。限界突破したストレスが原因……?)
最初は良かったのだ。髪を優しくとかされるあの感覚は、懐かしくて、日々の疲れが溶けていくような完全な『癒やし空間』だった。
でも、その後のあれは何だ。耳元にへばりつくような、あの甘ったるい囁き。
『大好き……凪ちゃん、だぁいすき』
思い出すだけで、全身の鳥肌がスタンディングオベーションだ。
それとも、何? 私、実は自分が思っている以上に欲求不満で、誰でもいいから愛されたいと無意識に飢えまくっているのだろうか。
でもその相手が弟だなんて、見境がなさすぎでしょ、私。
一人でベッドをのたうち回り、悶々と枕に顔を埋めているうちに……どうやら、そのまま二度寝のブラックホールに吸い込まれていたらしい。
次に私を現実へと引き戻したのは、鼓膜を容赦なく震わせるドン!という扉を叩く音だった。
ドンドン!ドンドン!!
「いつまで寝てんの!? 僕もういくけど遅れても知らないよ」
「――ひゃいっ!?」
乱暴なノックと、ドアの向こうから聞こえる不機嫌な夏波の声に、私は跳ねるように飛び起きた。
慌ててスマホに目をやると、画面に表示された時刻は完全にアウトな時間を指している。
「やばいやばいやばい!!」
パニックになりながらベッドを蹴り出し、寝癖も構わずリビングへとバタバタ駆け込む。
すでに玄関のドアが閉まる音が響いた後で、室内には誰もいなかった。ただ、シンとした空気の中に、香ばしいトーストの香りがふわりと残っている。
ダイニングテーブルに目を向けると、そこにはお皿に盛られた簡単なモーニングと、コップ一杯のオレンジジュースが用意されていた。
そして、その皿の脇には、クシャッとした殴り書きのメモ。
『バカ』
一言、それだけ。
「……ほんっと、一言余計ね」
毒づきながらも、朝食を作ってくれたことには素直に感謝しつつ、私はその『バカ』印の朝食を秒速で胃袋に流し込んだ。そして、スパイ映画さながらの猛スピードで準備を済ませ、家を飛び出した。
満員電車に飛び乗り、駅からオフィスまでヒールで猛ダッシュ。
なんとか始業数分前に自分のデスクへと滑り込み、「ふぅ……」と肩で息を荒げていると。
「……ぷっ」
隣のデスクからひょっこり顔を覗かせた後輩のシバケンが、私を見るなり、分かりやすく吹き出した。面白そうに口元を押さえている。
「おはよう、柴崎くん……って、なに笑ってるの?」
手元のPCを立ち上げながらにっこりと余裕を装い聞くと、柴崎はデスクに肘をつき、くすくすと肩を揺らした。
「いや、ごめんなさい.. あの、先輩。それ……なんて言うんでしたっけ、ターバン? ヘアバンド?」
シバケンはわたしの頭を指差しながら、我慢できないと言わんばかりにデスクに突っ伏し笑い転げている。
「……え?」
嫌な予感がして、慌ててデスクの引き出しから手鏡を取り出し、顔を映した。
鏡の中には、バッチリ決めたブラウスとベストをきちんと着こなした私の姿。
――そして、その頭上には、洗顔時に前髪をまとめるためのモコモコとしたヘアターバンが、完璧なホールド感で鎮座していた。
「あ、アアア……ッ!」
あまりの急ぎように、取るのを完全に忘れていたのだ。そのまま電車に乗って、このオフィスまで平然と歩いてきてしまった自分の姿を想像し、顔から火が出るかと思ったがここで動揺したら負けだ 。
これまで一分の隙もなく築き上げてきた「真面目でクールな先輩」のイメージを死守するため、あくまで冷静を装ってそっと頭からヘアターバンを外し、鞄の奥底へと滑り込ませた 。そして、何事もなかったかのように完璧な無敵スマイルを顔面に貼り付ける 。
「うふふ? よくあるうっかり、ね?」と余裕を浮かべてみた 。
シバケンは完全にツボに入ってしまったらしく、本当に楽しそうに目尻の涙を拭っている 。
「いやぁ、最近の先輩は面白いなぁー」 涙を拭いながらシバケンが言うと、すぐそばで『ゴホンッ』と咳払いが聞こえた 。
「面白いことは大変結構ですけどねぇー、もう始業時間始まっていますよ?」 振り返ると、我が部の課長がにこやかに重厚な圧をかけてすぐ横を通り過ぎて行く。
(ああっーー! なんでぇ!? 今まで隙なく築き上げてきたわたしの優秀なイメージがっ……!!)
優秀な社員としてのイメージを完璧に保っていたのに、こんな小学生みたいな叱られ方をしてしまったことに内心で激しいショックを受ける。
周りの社員さん達もよく見ると笑いを堪えているようだった。
恥ずかしさで半泣きの私に、シバケンは楽しげに囁いてくる 。
「ふふっ、叱られちゃいましたね? 先輩」
(一体誰のせいだと……)
そろそろ文句の一つでも言ってやろうかと見上げると、シバケンはにっこりと笑って続けた 。
「先輩、今日は気晴らしに俺のオススメのバーに行きませんか? 今の先輩もかなり面白いんですけど、そろそろ心配になってきたので……」
『うぉっほん!!』
この地響きのような声は、間違いなく課長の二度目の咳払いだ 。その声を聞くや否や、シバケンは私の返事を聞くこともなく「先輩、それじゃまた後で」と言い残し、見事なスピードで作業へと戻っていった 。
(ちょ、まだ行くって言ってないんだけど!)
置いてきぼりにされた私は、とりあえず立ち上がっていたPCの画面に視線を落とした 。
(気晴らし、か……)
確かに最近、変な夢ばかり見て精神的にも限界だし、あの『自分そっくりのドール』の光景や今朝の夢の内容を思い出すと、今夜どんな顔をして夏波と顔を合わせればいいのかわからない 。今は家に居づらいことは確かだし、顔を合わせないでいいなら少し時間を潰してから帰るのも悪くないだろう 。
「……仕方ない、せっかくの提案だし行ってみようかな」
正直最近のシバケンの態度を考えると今夜の誘いも面白半分に違いないのだけど、今の私にはその軽さがありがたかった。




