12話.わたしの願望!?
あの後、どうやって家を出たのかよく覚えていない。
息を切らしてオフィスのドアを開けたときには、始業時間のたった3分前だった。
「おはようございます、此坂先輩。ギリギリ出社なんて珍しいですねー」
自分のデスクに滑り込むなり、隣からひょっこりと顔を出したのは、後輩の柴崎健太郎―通称シバケンだった。
いつもの人懐っこい笑顔でこちらを覗き込んでくる。
「お、おはよう……ちょっと、寝坊しちゃって」
引きつった笑みを返しつつ、私はPCを立ち上げた。
しかし、モニターの画面を見つめても、頭の中は先ほど見たクローゼットの光景で埋め尽くされている。
(アイツどういうつもりであんなもの...、なんて問い詰めよう……いや、その前に今日帰ったら、どういう顔して会えばいいわけ……? いや、待てよ? 問い詰めるってことは、私が勝手に部屋に入ったのがバレるってことで……)
「あ、先輩。そこ、数字の桁違ってますよ。あと、さっきから同じ資料3回印刷してます」
「えっ!? あ、ほんとだ……ごめん!」
シバケンに指摘され、慌てて複合機のキャンセルボタンを押す。
(ダメだ、全然仕事に集中できない……!)
普段なら絶対にしないような初歩的なミスを連発する私を見て、シバケンがキャスター付きのイスを滑らせて、ススーッと距離を詰めてきた。
「……先輩にしては珍しいですね。何かありました?」
いつもは子犬のようにキラキラしている彼の瞳が、探るように覗き込んでくる。
内心まで見透かされそうな瞳にギクリとして、私は慌てて視線を逸らす。
「な、何もないよ! ちょっと……夢見が悪くて、寝不足なだけ」
「へぇ、悪夢ですか? どんな夢です? 俺、夢占いしましょうか?」
面白がるように身を乗り出してくるシバケン。
(あんなふざけた夢、口が裂けても言えるわけない……!!)
『凪ちゃんは世界一可愛いんだから』と、涙目で私にすり寄ってきた生意気な義弟の姿。
しかも、私はラブドールの中にいて……なんて、頭がおかしくなったと思われるに決まっている。
「だ、大丈夫! 本当に大したことない、ただの変な夢だから!」
「えー、教えてくださいよ。夢って、実は隠れた願望や深層心理の気持ちが出てくるみたいですよー?」
シバケンは冗談めかして笑い、「おっとっと、課長がこっち睨んでますね」と悪びれもせず自分のデスクへと戻っていった。
しかし、その何気ない一言が、私の頭の中でガンッ! と大きな衝撃を与えた。
(隠れた、願望……?)
そうか。あの夢は、夏波の気持ちじゃない。
私の願望が作り出した幻だったんだ。
(私…心のどこかで、また夏波に甘えられたいって思ってたの……?)
確かに、昔の夏波は私の後ろばかりをついて回る、泣き虫で可愛い弟だった。
それが今じゃ「ブス」「時間の無駄」と憎まれ口を叩く反抗期真っ盛り。
私は無意識のうちに、昔の素直だった夏波を懐かしんで、あんな私をベタ褒めして甘えてくる夏波という、自分にとって都合のいい夢を見てしまったのだ。
そう考えると、パズルがカチリとハマるようにすべての辻褄が合う。
(うわぁ……なんか私、めちゃくちゃ痛いブラコンみたいじゃん……恥ずかしすぎ……)
私は熱くなった顔を隠すように、デスクの上の書類に突っ伏した。
目線の先で面白そうにこちらを見ているシバケンには気がつかないふりをして、涼しい顔でパソコン業務に戻り、
そして本日4回目の資料がリズミカルに印刷されていくのを無心で見届けた。
(....今日は残業しないでもう帰ろう....)
笑いすぎて咽せているシバケンとシバケンを睨む課長を尻目に職場を後にした。




