第1話 勝てる。だが、帰れない
「カラン砦は落とせる。だが、百二十五人で出れば、帰路で遠征隊が壊れる」
俺がそう告げると、作戦卓を囲んでいた四人の視線が、一斉に地図へ落ちた。
ベルグラント王国東部国境軍司令部。その最奥にある会議室には、俺たち勇者一行以外の姿はない。先ほどまでいた将軍や参謀たちは、王命が正式に下る前の最終確認を俺たちだけで行わせるため、いったん退室していた。
卓上には、東部国境から魔王軍領へ延びる黒嶺道と、その先にあるカラン砦までの地図が広げられている。
国境からの距離は約二百四十キロ。黒嶺道の大半は両軍が恒常的に支配していない空白地帯だが、魔王軍の斥候や小部隊は頻繁に入り込んでいる。
カラン砦には、王国東部へ攻め込む兵のための食料、武器、飼料が集められている。敵の増援が到着するまで、長く見積もって二十日。先に奪えば、東部戦線の情勢を変えられる。
戦うだけなら、俺も勝算はあると見ていた。
勇者アレク・ローディスは、正面から砦の門を破れる。リディアなら城壁へ斬り込み、大賢者シリルの魔法は守備隊をまとめて押し返す。負傷者が出ても、聖女ミレイユがいる。
俺も帳簿だけを扱ってきたわけではない。長槍と風魔法を使い、崩れた戦線を支え、退却時には何度も殿を務めてきた。
この四人と六年間も戦ってきた俺は、彼らの強さを誰より知っている。
「砦を落とせるなら、帰路も確保できるはずだ」
アレクは感情的にならず、地図へ片手をついた。まだ二十三歳だが、聖剣を預かる前から人の先頭に立てる男だった。
「カランには三百人を一か月養える備蓄がある。砦を取ったあと、その食料と飼料を使う」
「魔王軍が、倉庫の鍵まで添えて明け渡してくれればな」
俺は地図の横へ遠征計画書を置いた。
参加予定者は、俺を含む勇者一行五人、王国兵九十六人、御者、荷役人、鍛冶職人、治癒術師を合わせた支援要員二十四人。総勢百二十五人だ。
荷車十八台を三十六頭の馬で引き、十四日分の食料を運ぶ。八日以内にカラン砦を攻略し、敵の備蓄を利用して、その先で包囲されている三つの村を救援する計画になっている。
「守備隊が砦を捨てると決めた時、最初にするのは倉庫への放火だ。次に橋を落とし、井戸を使えなくする。指揮官がまともなら、その程度は命じる」
「こちらの攻撃計画が漏れている兆候はない」
大賢者シリル・ノートが、計画書に目を落としたまま答えた。
「守備隊に撤退の動きもない。砦を包囲したあとなら、僕が倉庫を結界で封じられる」
「城壁を崩し、敵の術師を抑えながら、倉庫の防火まで引き受けるのか」
「不可能とは言っていない」
「なら、もう一人のシリルにも会わせてくれ。仕事を半分ずつ任せたい」
シリルは眼鏡の位置を直したが、すぐに言い返しはしなかった。自分の負担が増えすぎていることは、本人が一番よく理解している。
代わりに、俺が計画書の後ろへ重ねていた別案を引き寄せた。
「君の案にも問題がある。国境から八十キロと百五十キロの地点に臨時補給所を設けるには、先遣隊と護衛を出さなければならない」
「ああ」
「荷車の通れる道を直し、物資を運び、兵を置く。そこまで動けば、攻撃計画を隠せない。敵はカラン砦へ増援を入れるだろう」
「そのとおりだ」
俺があっさり認めると、ミレイユが少し驚いた顔をした。
別案なら必ず成功するなどと考えてはいない。食料、馬、荷車、橋、負傷者の後送を整えれば、遠征隊が途中で壊れる危険は減る。その代わり、敵へ準備する時間を与えることになる。
「俺の案は、奇襲性を捨てて継戦能力を取るものだ。戦場まで無事に着けても、増援後のカラン砦を落とせる保証はない」
「なら、どちらを選んでも危険は残る」
リディア・ベルンが地図を見つめた。元近衛騎士らしい端正な横顔には、迷いよりも計算する者の厳しさが表れている。
「ガレスの案なら、兵は戦える状態で砦へ着く。しかし、敵の数が増える。今の案なら守備隊が少ないうちに攻められるが、道中で兵と馬が消耗する」
「そうなる」
「その中間は作れないのか?」
「荷車を二十四台に増やし、馬を交代させられれば、十四日で補給所を一つだけ置く案までは縮められる。だが、馬を余分に四十八頭集める必要がある」
「国境軍から出させる」
「軍馬を荷車につなぐ許可が出ればな。騎兵隊長が喜んで貸してくれるとは思えない」
「私が話す」
リディアなら、騎兵隊長を説得するところまではできるかもしれない。だが、そこでアレクが首を横に振った。
「十四日でも遅い」
その一言で、会議室の空気が再び重くなった。
カラン砦の先では、東部の三村が魔王軍に包囲されている。斥候が確認した残りの食料は、約十日分。住民はすでに家畜を潰し始めているという。
十八日かけて準備すれば、遠征隊の生還率は上がる。十四日まで縮められたとしても、村には間に合わない。
「医療班の配置は変えました」
ミレイユが、自分の前に置いていた書面を俺へ差し出した。
「治癒術師三人を交代制にして、各小隊には担架を二つずつ持たせます。私は前線を離れられない場合がありますから、重傷者の選別は同行する治癒術師長へ任せます」
受け取った書面には、治療の優先順位、負傷者を集める場所、夜間の当番まで細かく記されていた。俺が以前教えた形式を使っているが、中身はミレイユ自身が組んだものだ。
「医療班については、これでいい。俺が作った案より現実的だ」
「それでも足りませんか?」
「負傷者を治療する仕組みはある。運んで戻す荷車がない。十八台すべてを食料と野営具で埋めれば、往路で負傷した者は担架で運び続けることになる」
「食料を使った荷車から順に空けていくしかありませんね」
「それしかない。ただし、負傷者が出る順番は荷物の減り方に合わせてくれない」
ミレイユは悔しそうに唇を結んだが、自分の治癒術で何とかすると言い張りはしなかった。
彼女は傷を閉じ、毒を抜ける。だが、失った血や体力まで元どおりにはできない。本人も、それを六年間の旅で嫌というほど見てきている。
「結局、選ぶしかないのだな」
リディアが言った。
「村の住民が十日後に飢える危険と、遠征隊が帰路で壊れる危険。その両方を消せる案は、今の私たちにはない」
誰も答えなかった。
勇者たちが無謀だから話がまとまらないわけではない。俺の慎重さが、常に正しいわけでもなかった。
俺たちが準備している間にも、助けを待つ人間の食料は減っていく。カラン砦の戦力が倍になれば、攻略時の死者も増えるだろう。
アレクは俺の別案を一行ずつ読み直し、やがて静かに卓へ戻した。
「ガレスの計算は正しいと思う。それでも俺は、今行く」
「三村を救うためか」
「それが勇者として引き受けた役目だ。危険がなくなるまで待っていたら、聖剣を持っている意味がない」
「お前たち四人だけの旅なら、止めはしない。今回、その判断に従って歩くのは、同じ速さで進めない百二十人だ」
「分かっている。全員が無事に戻れるとも言わない」
アレクは俺から視線を逸らさなかった。
「それでも、助けを待つ者を見捨てる方は選べない。だからガレスに来てほしい。お前がいれば、道中の被害を減らせる」
その言葉に嘘はなかった。
俺が同行すれば、道中の事故も欠乏も減らせるだろう。橋が落ちていれば迂回路を探し、荷車が壊れれば積み替え、負傷者が出れば戻す順番を決める。
そうやって、これまでも切り抜けてきた。
足りない食料も、無理な日程も、最後には俺が何とかする。四人が軽い気持ちで押しつけてきたわけではない。それでも六年間の成功によって、「ガレスがいれば破綻まではしない」という感覚が生まれていた。
四人だけなら、それでもよかった。
今回は百二十人が巻き込まれる。
「確認しておく。この計画の兵站責任者は俺で、出発後の行軍判断も俺が下すんだな」
「必要な権限は与える」
「俺が二日目に撤退を命じたら、従うのか?」
アレクの返答は、すぐにはなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「敵の動きが変われば相談する」
「相談している間にも、馬は腹を減らす」
「ガレス」
「責めているんじゃない。お前にはお前の責任があり、俺には俺の責任がある。今回は、それを同じ計画の中へ収められない」
正式な出発命令は、まだ下されていない。勇者一行の契約も遠征ごとに更新され、王命へ署名する前なら参加を拒める。
一度署名すれば、途中で離れるつもりはなかった。
だから、決めるなら今しかない。
俺は腰につけていた銀色の認識章を外し、卓の上へ置いた。
六年前、アレクたちの仲間になった日に受け取ったものだ。勇者一行の五人だけが持つ、王国公認の証だった。
「この遠征を降りる」
ミレイユが息を呑み、シリルの指が計画書の上で止まった。リディアは認識章から俺へ視線を移した。
「遠征だけの話か?」
「いや。今日限りで勇者一行を辞める」
「そこまでする必要があるのか」
アレクの声は低かったが、怒りはなかった。
「兵站責任者の名前は、荷札につける飾りじゃない。俺の名で進めと命じる以上、歩かされる兵士にも、送り出す家族にも責任がある」
「俺たちを信用できなくなったということか」
「戦えば勝てると信用している。カラン砦も落とすだろう。だが、大勢を率いる時まで自分たち四人の基準で決断するお前たちには、もう兵站を預けられない」
言葉にしたあとも、六年間が消える音など聞こえなかった。
アレクは怒鳴らず、認識章を投げ返しもしない。一度だけ目を閉じてから、俺が作った別案を引き寄せた。
「この書類は置いていってくれるか」
「そのつもりだ。補給商人と橋梁職人の候補も裏に書いてある。十四日まで縮める案は、馬を確保できた時だけ使え」
「分かった」
「敵の倉庫が残っていても、すぐには手をつけるな。毒見と在庫確認を先にしろ。井戸水も同じだ」
「分かった」
シリルが眼鏡を外し、布で拭きながら俺を見た。
「君の代わりを十八日で見つけられるとは思わないけどね」
「十二日で探せ。残り六日で、そいつの話を最後まで聞く練習をしろ」
「最後まで口が減らないな」
「惜しくなったか?」
「少しだけね」
俺たちは笑った。
アレクが卓の向こうから右手を差し出した。
「俺は行く」
「知っている」
「お前が正しかったと後悔するかもしれない。それでも、待っている人を見捨てる方は選べない」
「なら、生きて後悔しろ」
その手を握った。聖剣を振り続けてきた掌は固く、六年前より一回り大きく感じられた。
「ガレスも死ぬなよ」
「次の雇い主が決まるまでは、死ぬほど働く予定もない」
アレクは呆れたように息を吐き、それから笑った。
別れとしては、そのくらいでよかった。
会議室を出た俺は、自室へ戻って荷をまとめた。私物は長槍、片手剣、着替え、野営具、地図帳が三冊。六年前、荷車の扱いと殿の両方を任せられるという理由で雇われたが、持ち物の少なさだけは当時から変わっていなかった。
国境軍の会計所で契約終了の手続きを済ませ、これまでの未払い報酬を受け取る。しばらく食いつなげる額ではあるが、働かずに暮らせるほどではない。
会計所の出口には、護衛や荷役人を募る依頼札が並んでいた。
王都行き、南部の鉱山行き、西部の穀倉地帯行き。条件のいい仕事から札が裏返され、残っているのは危険か、安いか、その両方を満たすものばかりだった。
端に追いやられた一枚が目に留まった。
ローデル辺境領行きの小隊商。荷車六台。護衛不足。旧街道の治安悪化につき、報酬は相場の一・五倍。ただし、帰路の護衛契約は保証しない。
「ずいぶん正直な依頼だな」
「お勧めはしませんよ」
受付の兵士が、俺の手元を見ながら答えた。
「ローデルでは魔物が増えています。魔王軍の斥候を見たという報告もありますし、帰りの荷を用意できる保証もないそうです」
「荷の中身と御者の人数は?」
「詳しい話は、隊商主から聞いてください。出発は三日後です」
「なら、まず責任者に会わせてくれ。車輪と積荷を見てから決める」
俺は依頼札を受付へ差し出した。
帰りを保証しないと最初から書いてあるだけ、先ほどの遠征計画より話は早い。
帰れる条件を、出発前に作ればいい。




